「あがったな」

 先程までの豪雨が嘘のように晴れ渡った空。透き通るような青を背景に、救世主は穏やかな微笑みを見せる。大天使は大きく伸びをして、清められた世界の空気を肺いっぱいに取り込んだ。ひやりと冷たい酸素が喉の内側を刃物のように刺す。雨上がりの葉についた露は瑞々しく、太陽は燦々と輝いている。
 ルシフェルは何食わぬ顔をして手元のビニール傘を静かに閉じた。

「よくやったな。これで地上は清められた。
 洪水計画も破棄になるとメールが来たよ」
「めいる……書簡か! 神によろしくお伝えしてくれ」

 ああ、とおどけた返事を投げて天使は親指を動かす。ピ、ポ、ポと近未来的な効果音を聞きながらイーノックは再び開けっぴろげな空を眺めた。
 小鳥はさえずり、オリーブの実を啄んでいる。嗚呼、なんという平和か!
 書記官は空の太陽へ大きく手を振った。神はこの世界を今も御覧になっているだろうか。罪を悔い改めた人間達に、もう一度温かな御慈悲を掛けて下さるだろうか?
 折り畳み式の携帯をパタンと閉じて、ルシフェルは爽やかな笑みを浮かべた。

「さあイーノック、天界へ戻るぞ。君の本業が口を開けて待っている」

 力強く腕を取られた書記官は自らの職務室に溢れんばかりに積まれているだろう書類の山へ思いを馳せ、ほんの少しだけ気を滅入らせた。彼が天界を旅立ってからの出来事も逐一記さねばならなくなるだろう。これではまるで自伝の編纂作業だな、と男は思った。こっそりと溜め息をつく。
 悩ましい溜め息の理由を察してか、ルシフェルはけらけらと笑った。可笑しそうに笑い声をあげながら天使がぬかるんだ地を蹴ると、二人の男は羽根のようにふわりと軽く浮かび上がった。
 空の上から見る世界は僅かに浸水してはいたが、陽の光を反射してキラキラと輝いていた。イーノックは感嘆の吐息を漏らし、自らの故郷である地上を見つめた。その美しさはまさに神の御業。

「……うん?」

 木々生い茂る森へ視線を向けたイーノックは、何やら胸騒ぎを感じて目を凝らした。

「ルシフェル」
「どうした。おっと、落ちないように気を付けろ」
「悪いが降ろしてくれないか。あの森の中央部だ」

 頭上から、「はあ?」と気の抜けた呆れ声が降ってくる。

「おいおい、冗談はよしてくれ。神もお待ちだぞ」
「分かっている。だが、どうしても気になるんだ」

 至って真摯な眼差しで青年は森を指で示す。ここに来て寄り道か。ルシフェルは口内で小言をぶつぶつと噛み殺し、やがて諦めの溜め息をついた。

「分かったよ。君の頼みは断れない」
「ありがとう」

 屈託のない笑顔に毒気を抜かれながら、悠久の時を生きる大天使は目尻を下げた。
 ああまったく、イーノックの頼みは断れない。彼の帰りを待ちわびる評議会の連中からは文句のひとつふたつくらい頂戴するだろうが、なあに。右から左へ聞き流してしまえばいい。この笑顔に敵うものなど、今の私は持ち合わせていないのだから。
 コウノトリよろしく青年を運びつつ、ルシフェルはだらしなくにやけた。幸いにもイーノックは使命感を帯びた瞳で森の天辺をじっと睨んでいた。天使は腕に男をぶら下げたまま大きく翼を旋回させた。風を切りながら徐々に高度を下げていく。
 やがて、青々とした大地が二人の視界へ飛び込んできた。

「恵みの森だ」

 イーノックは呟いた。
 彼の形容した通り、その森にはあらゆる種類の植物が生息しているかに見えた。更に高度が下がると、樹に生る実のひとつひとつまでが目視できるようになる。赤いもの、黒いもの、まだ青く熟していないもの。幹に絡みつく蔦は白い花をつけているし、根の近くでは色鮮やかなキノコが我が物顔でその場を占拠していた。大小の小鳥達がそれらを啄ばんでは歓びにさえずる。神への賛美を歌っているようにも聴こえた。

「これは驚いたな。穢れにも枯れずに堪え残ったのか」

 目の前でひらひら舞う蝶を視線で追いながら、ルシフェルは素直に感心したようだった。イーノックは木々がひらけた地を指差して、頭上で羽ばたく運び屋へ声を投げる。

「ルシフェル、あそこへ降ろしてくれ」
「よしきた」

 草原らしき広場へ目星をつけた天使は、一気に加速して錐揉み下降した。
 ある程度の高さになったところで、イーノックは掴まれていた腕を振りほどく。彼は膝のクッションをうまく使い、花畑の中へ見事着地しおおせた。男の無事を確認したルシフェルもまた速度を下げ、地に足が着くかどうかといった時点で自身の翼を格納する。トン、と軽やかな音が響いた。
 背徳の塔が崩れた今、花々は照りつける陽光を体いっぱいに浴びている。足元で揺れる花を蹴散らさないよう細心の注意を払いながら、イーノックは周囲を見渡した。人の気配を感じる。野生じみた勘を最大限に活用しながら、天界の書記官は草を踏み分けて駆け出した。やれやれ、といった声が背後から飛んでくるが気にする素振りすら見えない。
 木々の間をすり抜けて進んで行くと、どこからともなく聞き慣れた声がして青年を呼び止めた。

「イーノック? そこにいるの?」

 ほんわりと掛けられた声に、彼は急がせていた足を止めた。今では懐かしささえ感じる声だ。声の主は茂みをがさがさと騒がせて、それからひょっこり顔を出す。呼び声の招待は白いネフィリムの上にちょこんと乗った小さな盲目の少女。

「ナンナ」

 名を呼ばれた少女は花が咲いたように微笑む。

「やっぱりイーノックだったのね。遠くからでもすぐに分かった」
「凄いな。私が見えたのか?」
「大きな白い光が空を駆けて行くのを感じたの。追い掛けてみて良かった」

 父性愛に溢れた男と、儚く可憐な幼い少女。そこへ無理やり割り込むように、居心地の悪そうな咳払い。怪訝そうに眉をひそめてイーノックは肩越しに振り向いた。背後には退屈そうな表情でルシフェルがわざとらしく欠伸をしている。何千万年という悠久の時を経ているとは到底思えない子どもじみた反抗に、イーノックは呆れてあんぐりと口を開けてしまう。
 嫉妬にまみれた天の遣いは、冷ややかな視線を感じると取り繕うように居住まいを正した。唇をへの字に曲げての会釈はふてぶてしく、書記官は思わず肩を竦めた。

「大天使様もいらっしゃるのね」

 ナンナは眩しそうに瞼を細めて、ルシフェルのいる方向を見えない瞳でじっと見つめた。イーノックはルシフェルが少々機嫌を損ねていることを幼い少女に悟られないよう、視線を遮るように顔を覗き込む。

「ナンナ、どうして君がここに?」
「この森は自由の民が管理しているの」
「成る程、道理で様々な木の実がたわわに実っている訳だ」

 感に堪えないといった風にイーノックは称賛する。しかし、反してナンナは困ったように顔を伏せた。少女の下のネフィリムが何かを訴えようとぱたぱた前足を動かしているが、あいにくと男には示される意図を読み取ることができない。
 少女は意を決したように面を上げ、イーノックの瞳を真っ直ぐに見上げた。

「見せたいものがあるの。ついてきて」

 ネフィリムは頭の上の友人に促されるがまま、のったりとした緩慢な動きで歩き始めた。男はすぐに後を追おうと足を踏み出したが、ふと思い直して再度後ろを振り向く。

「置いていくぞ、ルシフェル」
 大天使は不服そうに唇を引き結んで、それからようやく歩き出した。





「これは――確かに、参ったな」

 導かれた天からの使者二人が目にしたのは、掻き集められた果実の山。

「ここ数日、雨が酷かったでしょう。そのせいで実が一気に落ちちゃったの。
 いくらなんでもこんな量一度には食べられないし、放っておくと傷んじゃうし」

 ナンナは小さな口で悲しげに溜め息をついた。イーノックは山と積まれた果実を摘まみ上げる。黒スグリに林檎、野イチゴもある。雨に酷く打たれたせいか、傷みの浸蝕も通常よりも早そうだ。かといって肥料とするにはなかなかに惜しい量である。誠実な男は顎に手をやり、頭を捻った。要するに長期の保存が効けばいいのだ。だがイーノックの知識では、太陽に晒して干しておくくらいしか思い浮かばなかった。しかしそれでは、ただでさえ雨水を含んでいるのだから、乾くより先に腐敗してしまいそうな気もする。
 結果、救世主もナンナと並んで慨嘆するしかないのだった。

「ジャムにすればいいじゃないか」

 そこへ、ルシフェルがけろりと言い放つ。さも当然といった様子で放たれたその言葉を、イーノックは驚きのあまり茫然と繰り返した。

「邪無だと」
「君は何か大きな勘違いをしているようだが、イーノック、もっと良いものだよ。
 ……そうか、もっと先の時代か。少し待っていろ」

 大天使は左手の平を上に向け、それから勿体ぶって右腕を掲げると、中指をパチン! ひとつ鳴らした。途端にルシフェルの左手の上へ赤い瓶詰めが現れる。大天使は瓶の蓋をこじ開けて、イーノックへと投げる。

「さあ、これがジャムだ。未来の人間達が作り出した保存技術のひとつさ」

 元より古の人間であるイーノックはおそるおそる瓶の中身の匂いを嗅ぐ。どろりとした赤い液体のようなものは、何やら甘い芳香がした。とりあえず身の危険は無さそうだと悟り(第一、ルシフェルが危険めいたものを渡してくるはずがないと信じてはいるのだが)、彼は人差し指で中の液体を掬ってみた。怪訝に思いながらも、それを舌先に乗せてみる。

「! 甘い」
「イーノック、私にも!」
「果実中に含まれているペクチンに糖分を加えて煮詰めることによって、ゼリー状の凝固を起こしているんだ。そもそもペクチンとは高分子化合物で……おい、聞いているのか」

 イーノックは優しい微笑みを浮かべて、瓶の口をナンナへ差し出していた。ナンナは嬉しそうにジャムを舐めとって、唇の端を赤く染めている。そこへすうっと新たな手が伸びてきたかと思えば、それはネフィリムのものだった。
 解説を聞く素振りさえ見せない話相手に、ルシフェルはうんざりと両手を広げた。

「まあいい。とにかく、それに加工してしまえば日持ちがする。
 作り方は瓶のラベル……あー、側面に書いてあるから読んでもらうといい」

 少女は顔を輝かせて、安っぽい瓶を大事に抱き締めた。

「大天使様、ありがとう!」
「はいはい。神の御加護があるように」

 ルシフェルはおざなりに少女の頭を撫ぜた。まるで仔犬のように扱われて、それでもナンナはにこにこと幸せそうに笑った。足元でネフィリムがうねうねと愉快そうに体を揺らしている。光景の一部始終イーノックは何故だか頬がむず痒くなって、思わずへらりと破顔した。
 一刻も早く届けるのだと言い残して、ナンナはネフィリムを駆り立てた。友達の頼みとあらばといった様子で、低反発素材のそれは俊敏に森の奥へと消えて行った。ひらひらと簡素に手を振るルシフェルを横目に見やり、イーノックは遂にくすりと笑いを漏らした。もちろんそれを大天使の耳が聞き逃すはずもない。

「なんだ、忍び笑いとは」
「いや。君はやはり天使だなと思って」
「今更何を言う。私はどんなときでも天使だぞ」

 唇を尖らせて不平を溢す姿はまず大天使とは思えず、それが更なる笑いを誘った。一体彼以外のどこにこのような天使がいるというのだろう。少なくとも彼は天に召し上げられてからこの方、彼程天使らしからぬ天使を目にしたことがない。
くすくすと笑い続ける青年の顔を、彼は鼻先数ミリの近距離で覗き込む。突然視界を埋め尽くす整った顔立ちに、イーノックはぎょっとして身を引こうとした。しかし大天使はそれを決して許さず、厳格に男の肩を捕まえ、そして。

「――っ」

 本当に触れるだけの、短いキス。
 ルシフェルは羽根のようにイーノックから口付けを奪い、それからぺろりと舌で自分の唇をなぞった。してやったりという表情を浮かべ、唇の端を三日月形に吊り上げる。

「ほう。安物のジャムだが、それなりにいい味じゃないか」

 硬直するうら若き青年を放り出して、ルシフェルは戯れに大空へと飛び立った。
 けらけらと愉快そうな天使の笑い声が晴れた空へ響き渡り、地上の鳥達は呼応するように囁き合ったのだった。




天使の囀り

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