波打ち際で独り、空を見上げている少年がいた。深く被ったローブ越しに空に何が見えるのだと問うてみると、その少年はゆっくりとかぶりを振る。柔らかに、緩やかに、確かな知性を感じさせる動き。

「空じゃ、ない」

 温厚な顔つきをした少年の口調はどこかぶっきらぼうで、それだけが唯一子どもらしかった。体に見合わないぶかぶかのローブに身を包んで、金髪の少年は再び空を仰ぎ見る。底無しの青が彼の瞳孔に転写される。深い碧眼を宝石のように輝かせて、少年は小さな口を開いた。人差し指で真っ直ぐに成層圏を示して曰く、

「天……です」

 少年ははにかんでいるようだった。ほう、と真面目くさって相槌を打ちながら、茶化し屋の大天使の内心は大いに愉快がっていた。ビー玉のような瞳をくりくり動かして、少年はとろんと笑う。

「天には主と、天使様がいらっしゃるから」
「すると、君には天使が見えるのか」

 ルシフェルがしゃがんで目線を合わせてやると、彼は幼い顔をくしゃりと歪めた。困ったような、弱ったような顔だ。ルシフェルはニヤニヤと大人特有の嫌な笑みを浮かべて、少年を値踏みした。彼が真に御心に適う人間なのか、最高座の天使として見極める必要があったのだ。
 幼い彼はもう一度首を横に振る。

「いいえ、見たことはありません」
「見えないものを君は信じるのか」

 少年は伸ばしっぱなしの髪を爪でちょいと掻き分けて、はにかんだように笑った。ほんの少しの背伸びを匂わせて、

「見えないけれど、感じるのです。“いつでもお前の傍にいる”と」

 ルシフェルはローブで出来た影の中、大層満足そうに微笑んだ。それこそまさに彼と天界が求めていた答えだった。ルシフェルは胸中で小さく呟いた。今に彼は大きくなるぞ。そして、最も賢く最も尊い人間となるのだ。
 ルシフェルはローブから手を突き出した。親愛の印だった。

「君と友達になりたいんだ。名前を教えてくれるかい」
「イーノック」

 自らの名前を誇りと共に舌に乗せ、イーノックは素直に握手へ応じた。




めでたしのはじまり

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