「イーノック。悪夢の作り方を知ってるか」
「悪夢の、作り方?」
「そう。悪夢だよ」

 ルシフェルは流線型の唇を片端だけ吊り上げて、さも得意気に語り出す。
 長くなりそうな気配を嗅ぎつけて、賢い男は手に握っていた羽根ペンをインク壺の中へと戻した。とぷん。インクは小さな渦を起こし、ペンの柄に巻き付く。墨の模様が刻まれる。ささくれ立った様は煉獄の炎。
 青年は書類に擦れて汚れた袖を捲り上げた。骨の太い手首が惜しげもなく露わとなる。
 悪夢、と大天使は繰り返した。奥歯で果実を噛み締めるような口調だった。

「作り方は簡単だ。
 乾燥させて粉粒状にした天界のアマリリスを、眠っている人間に吸引させるのさ。すると人間の体温は一時的に著しく低下するが、汗腺の働きは反比例して活性化する」
「かんせん……」

 聞き慣れない単語を復唱しながら、イーノックは頭を捻る。
 ルシフェルは博識だ。しかし、誰もが全てを知っていると思いこんでいる節がある。少なくとも青年はそう思っていた。それとも天使というものは元よりそんな生き物なのだろうか。書務室に張り巡らされた白の天幕を眺めながら、ふうと息をつく。
 高潔な大理石像は彼の様子を目に留めて、軽く声を立てて笑った。男が無知なことなど百も承知だ。そんなところまでルシフェルは賢かった。

「眠りから目が醒めたとき、自分の身体がじっとりと濡れている。
 背筋は凍てつくように冷え、ぬめりを帯びた汗が素肌に衣を貼りつける。
 君にも経験があるんじゃないか」

 イーノックは愚直に頷いた。まさしく悪夢以外の何物でもない。あの底冷えが戻ってきた錯覚を覚えて、彼は小さく身震いをした。

「しかし何故、私にそんな話を」

 さてね、と天使は肩を竦めた。揺れた漆黒の髪から光が零れる。イチジク色の瞳に微かな翳りが宿ったのをイーノックはあっさりと見逃した。愚かな男よ、汝の名はイーノックなり。
 ルシフェルは慈愛に満ちた瞳で彼を見つめ、静かに微笑んだ。全てを内包した笑顔はまさしく天使の微笑み。
 遠くで小さく鳩が鳴いた。

「人間が悪夢を見るのは、天使の仕業なんだよ」







 ぱたん。ぱたん。
 一定のリズムで床を打つ爪先に、ルシフェルは無感情な目を向ける。

「今日は随分と機嫌がいいんだな」

 ぶっきらぼうに投げられた言葉のせいか、ぱたん、音が止まる。足の持ち主はゆったりと足を組み替えた。衣擦れの小さなざわめき。
 男――のように見える存在――は音もなく笑うと、顎を上向けた。高飛車な睫毛はルシフェルを指している。
 『存在』は神と呼ばれていた。

「そう見えるか」
「私にはね」

 神は鼻で息を吐く。答えは提示されなかったが、口元の笑みは崩れなかった。

「ルシフェル。彼をどう思う」
「彼が誰を指しているのか分からないが」
「とぼけるんじゃない。イーノックだよ」

 途端、大天使の視線が嫌悪の感情を帯びる。どす黒い熱の塊のようなものが神の台座をめらりと燃やした。
 神は気付かない振りをして金の髪を風もないのになびかせる。金髪は太陽のコロナにも似て、溢れ出る光の揺らめきが周囲を一層明るく照らし出した。
 手で批難の視線を軽く薙ぎ払って、全知全能の彼は笑いと共に仰け反った。けらけらと悪びれもしない高笑いが聖なる空間に響き渡る。
 不快感を隠そうともせず、ルシフェルは片足に重心を移す。

「君のオモチャだろう」
「はは! 酷い言い草だ」

 愉快そうな彼の様子がよほど気に食わなかったのだろう。見目麗しい大天使は己の奥歯をこれでもかと噛み締めた。天使ゆえに血こそ出なかったが、苦々しい音が口内を満たす。
 ルシフェルは神を理解できなかった。そしてこれからも恐らく、理解することなど不可能だと思っている。

「ルシフェル、ルシフェル」

 降ってきたのはなだめすかすような声だ。馬でも操るかのような口振りで神は大いなる両腕を広げる。全てを思いのままに動かすことのできる、絶対的な双腕。
 絹のような、金のような素材でできた衣を擦り合せながら彼は微笑んでみせる。

「私には創造物に対しての責任があるんだ。闇雲に作ればいいという訳ではない。
 常にフィードバックを取り、よりバランスの取れた箱庭を維持せねばならないんだ。その為には質の高い偵察と、度重なる実験が必要不可欠となる」
「ならば壊してしまえ」

 口をついて出た言葉に、被造物であるルシフェル自身も驚きを隠せなかった。神は少しだけ意外そうに目を丸めて、自分に仕える忠実なしもべを見た。
 堰を切った言葉の濁流は今更止まらない。

「常に改修を行わなければ維持できない世界なんて欠陥品だろう。
 全て壊してしまえばいい。地上も、ここも」
「私に嫉妬しているのか」

 突きつけられた言葉は突き放すようなニュアンスを帯びていた。ルシフェルは軽妙な舌を喉へ詰まらせ押し黙る。
 全ての上に立つ存在は、緩く唇を結んだ。水晶じみた瞳は決して感情を雄弁に語りはしない。ただ真っ直ぐに、目の前にある存在を映すだけだ。瞳に映る自分の姿を認めると、大天使は途端に不安に駆られ始めた。神がそれ以上何も続けなかったからだ。

 日頃から軽口を赦されてはいる。しかし、あくまでルシフェルは箱庭の住人のひとりでしかない。
 ぞわぞわと気味の悪い寒気が背筋を這い上がってくる。対峙して感じるのは、ただただ圧倒的な敗北。
 どうしようもなく沸き上がる畏れと、打ち消せない生理的嫌悪感がない交ぜになって、今や赤目の大天使は強く神を睨みつけるしかなかった。

 水晶玉のような瞳が突如満月色を宿す。伴って玉座周辺も白銀よろしく輝き始めた。

「さて、さて」

 おどけた声は変わらず愉快げに弾んでいる。

「ルシフェル。金星の守護者、小さな、ちっぽけな、一匹の天使よ。
 お前は本当に面白いな。
 私を憎みながら私を愛し、逃れたいと望みながら縛られている。
 その矛盾、まるで血が通った人間のようじゃないか」

 神は裸足を床につけ、どっしりと立ち上がった。羽織っていた深紅のローブを玉座へ打ち掛ける。
 一段、一段と台座を降りてくる神の前に大天使は跪かざるを得なかった。被造物にとってはもはや刷り込みのようなものだった。伏せた顔の前へ徐々に強大な光の塊が徐々に迫ってくるのが分かる。
 全ての頂点に立つ存在は二つの掌を伸ばし、ルシフェルの下顎をがしりと掴んだ。傍若無人な腕は有無を言わせぬ力で、俯く大天使の顔を上向かせる。爛々と輝く双眼がルシフェルを捕えて離さない。
 鼻先が触れるか触れないか、ぎりぎりの距離で神が囁く。

「あの男は私の作品だ。穢れの無い敬虔な魂の観察が、何故君の機嫌を損ねる?」
「敬虔? 盲目の間違いだろう」

 我慢ならずにルシフェルが吼える。

「盲目、結構じゃないか。神を捨てる天使もいれば、神しか見えない人間もいるさ」

 とん、とん。
 二人のやり取りを遮るように扉のノックが響く。
 神は掴んでいた両手を穏やかに放した。扉に目をやる横顔がほくそ笑んでいるのを見て、はっとした大天使の脳内を嫌な予感が駆け抜ける。
 まさか。そんな、趣味が悪いことを。

「御入り」

 願い虚しく扉は開け放たれ、来訪者を曝け出す。強過ぎる光に当てられた客人は思わず手で両目を覆った。その仕草は何とも無様で、まさしく盲目の名に相応しい。
 客人の目が眩さに慣れ始めたところで、男はそっと声を掛ける。

「ようこそイーノック。さすが、時間に正確だな」

 屈めていた体を起こし、創造主は両腕を翼のように広げて歓迎の姿勢を取った。偉大なる主に直接名を呼ばれた彼は、畏敬のあまり躊躇いなく顔を伏せた。空洞と化した大天使の前で、神はにんまりと満足そうに笑う。今にも手を打ち鳴らしそうな表情だ。

「さあ、もっとこちらにおいで。遠慮などいらないよ」

 恐れおののき震える声を青年はなんとか絞り出す。

「ちょく、直接お目に掛かるなど、私には畏れ多いことで」
「ああそうか、そうだった」

 もじもじと足を踏み替える書記官を眺めて、神は面倒そうに溜め息をついた。切れ長の目尻でルシフェルを見やり、彼にしか聞こえない程度の小声でぼそりとひとりごつ。

「『何度目の初めまして』かな」

 ルシフェルは瞼を固く閉じて追及の眼差しをやり過ごした。一度目を合わせてしまえば自白せざるを得なくなる。
 まあいい、と神はイーノックの方へと向き直る。波打つように手招きをすると、愚かな人間は誘われるがままにふらふらと寄ってくる。大天使はその場から身動きを取ることさえ赦されず、神の足元でじっとうずくまっていた。イーノックの足音がぺたり、ぺたりと近付いてくる。くすり、と主が喉奥で笑った。
 イーノックが膝を折るより先に、もう待ち切れないと言った様子で神が彼の肩を掴んだ。引き寄せられれば書記官は呆気なくよろめく。大いなる男は哀れな青年を抱きとめて、にやにやと可笑しげに口角を上げた。

 鉄の味が胃からせり上がってきた気がして、ルシフェルは眉頭に深く皺を刻んだ。空洞であるはずの胸がぎりぎりと痛む。まるで鼓動でもしているかのようだ。
 かたやイーノックはと言えば、他でもない賛美の対象に自身を抱き留められ、最上の喜びに頭が破裂しそうになっていた。キャパシティオーバーとなった頭は思考をやめ、ただ神の御腕を享受するだけの存在に成り下がっている。
 男の姿を模した神は骨張った手を青年の首筋へ這わせる。一息で全てを消し去ることのできる御腕が、今は一人の人間を弄んでいる。

「イーノック。君は本当によくやっている」
「は、いや」

 返事を返す声も絶え絶えで、それが神は愉快で堪らなかった。退屈は神をも殺すとはよく言ったものだ、と彼は朗らかに笑う。今回用意した舞台は特に気に入ったようだった。

「今回ここへ呼んだのは君を労う為だ。あらん限りの愛を君に注ごうじゃないか。人間の器には少々辛い量かもしれないが、受け取ってくれるかい」
「『――』!」

 ルシフェルが聖なる御名を叫ぶ。神はじろりと一瞥をくれただけで、彼の身体を撫でる手を止めはしない。
 首筋から喉仏へ。輪郭を伝い、こめかみ、耳の後ろから再び首の窪みへ。神の手が往復する度に想像を絶する快楽がイーノックの中枢神経を駆け巡る。三百万ボルトの電流にも似た刺激が彼の口をだらしなく開かせた。普段の禁欲に満ちた凛々しい表情はどこかへ吹き飛んでしまった。

 彼は恐らく、はい、と言ったのだろう。だが悦楽に歪んだ唇はもはや言葉を紡ぐことさえできず、曖昧な音の羅列しか生み出さない。
 神は笑った。祝福を施す前の顔つきをしていた。最も残虐で、何よりも誇り高い笑み。
 手は止まらない。厚い胸板を天衣越しに擦り、その奥の心臓までもを撫で上げ、鍛え抜かれた腹筋の窪みを容赦なく降りて行く。じりじりと、焦らすような動きと共に。

「ならば思う存分愉しむがいい。なに、怖がることはない」

 茫然自失の大天使を見下ろしながら、全知全能の存在は赤い舌を出した。

「『今日は』大天使様が見ていて下さるからね」









 ようやく浅い眠りに就いたイーノックの額に金色の前髪が掛かっている。ルシフェルはそっと薬指を伸ばし、髪の一房をどけてやった。冷たい指先が生え際を掠めると、青年は静かに眉間に皺を寄せる。だが、それも束の間の話でしかない。イーノックはすぐさま疲労のあまり寝苦しそうに呻き出した。獣の如き唸りだ。こめかみに玉のような汗が浮かんでは流れ落ちる。
 ルシフェルは男の様子を一瞥し、それから細く息を吐いた。もはや溜め息ですらない、ただ諦観の吐息。
 大天使はゆっくりと右ポケットに手を掛ける。中から摘まみ出したのは小さな麻袋。

「……アマリリスは眠りを呼ぶんだ」

 袋を傾ける。赤みがかった粉末がさらさらと落ちてくる。小さじ二杯分ほどを手の平の上に出すと、ルシフェルは書記官の寝顔へ向けてそれを吹き掛けた。ふう、と天使の息吹に乗ったアマリリスは空中で七色に煌めく。火の粉が散っているようにも見えた。
 虹色の大気に包まれたイーノックは暫く苦しげに寝言を呟いていたが、やがてその声も遠のいていき、遂には安らかな寝息へと変わる。泥のような眠りに全てを委ねて、男は神も信仰もない世界へと緩やかに落ちていくのだ。
 それは盲信的なイーノックにとってみれば、やはり悪夢なのだろうか。

 寵愛の記憶は眠りと共に流れ落ちる。彼は悦楽に歪む自身の顔を忘れ、再び処女のような魂へと戻るだろう。この男は清らかなままでいなければならないのだ、とルシフェルは拳を握り締めた。あのように快楽に堕ちた表情など、この男には似つかわしくない。
 神の寵愛は続くだろう。創造主が彼の観察に飽きるまで、幾度となく繰り返されるだろう。これまでもそうだったのだから、これからもそうに決まっている。それならば何度でも清めてやろうじゃないか。たとえイーノック自身が寵愛を望んでいたとしても、この行為が単なる自己満足だとしても。

 イーノック。闇に紛れて天使は囁く。

「悪夢の作り方を知っているか。
 ……神のない世界を、見たくはないか」

 イーノックは答えない。
 ざわ、と天界の木々が風に唸った。




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