イーノックは小刻みに震えながら、己の身体をゆったりとなぞる指先に酷く怯えていた。指先は彼を責め立てはしない。ただ緩やかに、柔らかく、仄かな快感と焦燥を与えるためだけに蠢いていた。
つう、と爪が皮膚に触れるだけで筋がついたように熱を帯びる。その熱が恐かった。
「イーノック」
呼び声は熱もなく吐き出され、微かな風が青年の耳朶に触れる。
「どうだ、もう堪らないんじゃないのか」
「はっ、はっ」
返事? そんなものはとうにどこかへ置いてきた。
イーノックは荒い息遣いのまま、赤い瞳を切望したような眼差しで見上げた。とろんと蕩けたような視線がルビー色に交ざり、渦を巻いて、絡み合う。
大天使は無いはずの自らの欲望がじりりと音を立てたのを感じた。僅かに指先へ力が籠もり、イーノックの身体をいっそう強く弾く。
「ぅぐっ」
「君は、どうしてそう」
天使の尖った爪は鳥類のようだ。
「無防備なんだ」
呆れた色を宿す声もどこか熱を帯びている。
一人と一匹の熱で、天幕内の小物達は肩身を狭そうにして寄り添い合った。この天幕の中にはもはや彼らしかいないようになって、大天使は密やかに囁く。
「イーノック」
名を呼ばれるだけで、生贄の羊は息を吐いた。イーノックは言葉を失って、ただただ大天使を見つめている。追い詰められた碧眼に溺れるかのように、ルシフェルは彼の唇へ落ちて行く。
「ああ、君は……」
絶え間ない口付けにおける息継ぎで、大天使は諦観したように呟いた。
「君は、まるで魔物だ。イーノック」
魔物は眉を歪める。決して牙を剥くことはない。己の立場を嫌というほど自覚しているからだ。だが眉を顰めるという、たったそれだけの仕草にどれほどの威力があるのかさえ青年は知らないのだ。気を抜けば魔力に足をとられ、未だ見ぬ深淵へと引き摺りこまれてしまう。
乾き切ったイーノックの唇が天使の名を紡ぐ。甘い響きが更なる試練を呼び起こす。ルシフェルの手がぴくりとざわめき、遂に噛みつくような強さを帯び始めた。
駄目だ、いけない、とスプーン一杯程度残った理性がガンガンと警鐘を鳴らす。これ以上進んではならない。これ以上進めば、どちらにとっても良くない結果が導かれる。そんなことは分かっているはずだろう。戻るんだ。
永久にも思えるような口付けを止めて、貼りつく唇を引き剥がす。ぷは、と切羽詰まったように息が継がれた。
イーノックの熱が治まるべくもない。
「るしふぇ、る」
「駄目だ……イーノック、ここまでだ」
聞き分けの無い子どものようにいやいやと首を振り、イーノックは褐色の両腕を広げた。大きな手の平が大天使の後頭部を掴み、半ば無理やりに引き寄せる。
二つの唇が再び重なった。
驚いたのはルシフェルの方だ。顔を背けて逃げようとも、頭はがっちりと掴まれたまま動かない。身体の輪郭を撫でる手は動きを止めた。硝子細工の天使は拳で青年の胸板を叩く。本心からの抵抗でないせいか、それは戯れのようでしかない。
幾度となく拒否されようとも、イーノックは彼を解放しなかった。主導権は奪い取られた。青年の舌がぬるりと天使の中へ挿入される。
歯列をなぞり、逃げ惑う舌を絡め取る。ぴちゃ、と卑猥な音が辺りに響く。天使は呼吸の真似事をやめ、侵入してきた舌を懸命に押し返す。
ようやく行われる息継ぎ。息を吸って吐くような自然さで、イーノックは言葉を発しようとした。
「ルシフェル、愛してい……」
「!」
がり。
大天使は顎をがちりと噛み合わせた。書記官の赤い舌に犬歯が食い込み、双方の口内に嫌な音が響く。
突然の痛みにイーノックは思わず舌を引っ込めた。血こそ出なかったが、鈍痛は口付けを中断した今もじんじんと残っている。
頬を押さえる哀れな書記官を一瞥し、ルシフェルは物分かりの悪い幼子に言い聞かせるように言葉を紡ぐ。自らの燃え上がる欲望を渾身で抑えながら、あくまで冷静を装って。
「今日はここまでにしよう」
「そんな、ルシ」
「『祝福の時間』はそう長くなくていい。
これは睦み事じゃないんだ。――なあ、そうだろう?」
突き放した口調で大天使が言う。イーノックは物言いたげな瞳で目の前の彼を見つめ、刹那の後に視線を伏せた。反論の言葉は無かった。
「さあ、さあ」
ルシフェルは両手を叩いた。辺りに漂う淫靡な靄を道化師の振りをして払う。
「明日も早い、良い子はもう寝る時間だ。横になるといい」
返す言葉もないまま、使命を帯びた書記官は頷く。満足気な笑みを取り繕ってルシフェルは気軽に頭をぽんと撫でた。冷たい手が熱の残りを攫って行く。
神の視線を畏れるように、イーノックが毛布を被る。おやすみ、とおざなりな挨拶を投げて大天使は出口に垂れ下がる布をくぐった。外は一面の星空で、天と地を覆い隠すものなど何もない。
そうやって監視しているのだろう、この下衆め。
今もこちらを見ているであろう神に向け、ルシフェルはそっと悪態をついた。一度燃え上がった欲望の種は鎮火するまで暫く掛かるだろう。中指を立てたい気持ちをぐっと抑える。
せいぜいそうして高みの見物をしているがいい。彼と私がいつ深みに嵌るのか、さぞかし面白がっているんだろう。だが、私は彼と最後の一線を超えるつもりはない。彼も、私と禁じ手を犯すつもりはない。決して犯させるものか。あの時間は祝福に過ぎないのだ。単なる慰撫と、少しばかりの口付け。私たちは、道を踏み外したりはしない。
だから、指を咥えてそこから見ているといいさ。
大きく空気を吸い込み肺を膨らませる。イーノックはもう眠っただろうか。眠っていなくとも、眠った振りをしているはずだ。あいつは優しい男だから。
ルシフェルは自らの頬を両手で叩いた。そして、同じく眠った振りをするために天幕の入口をくぐっていった。天幕の遥か上では何食わぬ顔をして星が瞬き続けている。
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