灰色のビル街には雨の白靄が掛かり、十メートル先すらおぼつかない。視界コンディションは最悪。しかし、それにも関わらず器用に互いを避けて行き交う人々の姿に、現代贔屓の大天使は思わず舌を巻いた。
雨を避けながら他人も避けるとはなんと要領の良いことだろう。
成る程、これも人間の進化の一部と数えるべきかもしれないな。
そんなことをしみじみと考えていたら、すれ違いざまに見知らぬ誰かの肩が当たった。人混みの中、忌々しげな舌打ちの音だけが残される。
「おっと、すまない」
既に姿さえも消え失せた被害者、あるいは加害者へ向け、偉大なる大天使は口先ばかりの謝罪を投げた。人の流れは誰しもが我関せずといった顔のまま、返事すら寄越しはしなかった。人の渦に言葉が吸い込まれていく。出口はどこに繋がっているのだろう。
やれやれ。更なる進化を目指すのに手一杯で、自己を省みる余裕すらないようだ。己の足場さえ満足に確保できぬとはなんと滑稽なことか。
哀れな子羊たちの群れに憐憫の眼差しを向けてやりながら、ルシフェルは手元のビニール傘をくるりと回す。弾かれた水の雫がぱたりと誰かの傘を叩いた。
しかし、今日はやけに人出が多いな。
冬の冷たい雨にも関わらず、華やかに着飾った人々が街に溢れている。そして、そのうちの誰しもがはにかんだような微笑みを浮かべているのだ。
秘密めいた微笑みは天使の興味をいたく惹いた。湧き出た知的好奇心を満たすべく、彼は赤い瞳を周囲にさっと巡らせる。
小さな紙袋だ。
観察しているうち、察しの良いルシフェルは突として気付いた。
はにかんだ表情を浮かべているのは、ほとんどが若い男女の二人組、あるいは女性同士のグループだ。そして彼女らに共通しているのは、慎ましく握られた小さな紙袋。
ピンク、オレンジなどのパステルカラー。時には表面にシックなデザインがあしらわれている。謎めいた紙袋の中身を思い、天使は透明な傘の下小首を傾げる。何か素晴らしいものの気配を感じながらも、それが何かは分からない。
うら若き乙女とすれ違う。彼女もまた頬を染めている。一面の花畑を想起させるような頬だ。ルシフェルはちらと何気なく視線をやり、彼女の持つ紙袋の中を覗き見る。
ふうん、と大理石像のような男が唸った。
箱、か。
紙袋の中には赤い箱、ご丁寧なことにリボン掛けまで施されている。随分と厳重な包装だ。これではおいそれと中身を確認することすら叶わない。
隠されれば隠されるほど暴きたくなるというもの。遥か昔、いや、つい一週間ほど前だったかもしれないが、その欲求を修道女のヴェールに喩えた男がいた。女の肉体に興味はないが、今ならばそれも理解できるような気がする。あのリボンを指で絡め取り、するすると解いてしまいたくなるのだ。なんと官能的な悦びだろう。
俗じみた自らの思い付きに、ルシフェルは下卑た笑いを貼りつける。
女の肉体に興味はない、か。天使である身でよくもまあ、これほど馬鹿げたことが言えたものだ。人間界との交わりの中で、だいぶ天使的な概念が薄れてきたらしい。更に言えば、正直なところ、興味がないのは女の肉体に限ったことではない。ある特定の男に関すること以外、全てだ。
数十万年前の彼の地で、今も自分の帰りを待っているだろう金髪の男を想い、大天使はその健気さに意地悪く微笑んだ。
さて、微笑みを浮かべた天使の前に、先程の女が手にしていた紙袋のロゴが迫ったのは、まさに青天の霹靂(へきれき)である。路面店のショーウィンドウに仰々しく描かれたブランドロゴは、思わず彼の足を止めさせた。
ルシフェルは頭に甘く掛かっていた想いの靄を払い、ゆっくりとガーネット色の瞳を向ける。映るのはポップなピンクのロゴ。
あまりのタイミングの良さに笑いそうになる。
面白い。これも神の思し召しかもしれないな。それに、雨に打たれているのにもそろそろ飽きた。
口笛でも吹き鳴らしそうな気軽さで、ルシフェルは重厚なガラスの扉を押し開いた。
「いらっしゃいませ」
店内を立ちこめる熱っぽい香り。鼻を覆われたかのように厚く漂う甘い匂いに、美しい男は微かに身を仰け反らせた。
見ればガラス張りのカウンター越しに、落ち着いた雰囲気で店員が佇んでいる。にこりと柔らかく笑いかけられれば悪い気はしなかった。
店内に人はそこそこ集まっているが、外の雑踏に比べれば幾分かマシだ。ルシフェルは冷えた体から深く息を吐き出して、カウンターへ身を寄せる。
ガラスのショーケースに並べられている商品を一瞥して、天使は、ははあ、と頷いた。中はまるで宝石でも飾ってあるかのような煌びやかさで、様々なチョコレートが陳列されている。
「宜しければお伺い致しましょうか」
そっと感じの良い声が掛けられる。少しも動揺せず彼も答えた。
「いや、さっきそこでこの店のロゴを見掛けてね。何を取り扱っているのかと」
「左様で御座いますか。ありがとうございます。
当店ではフランスで修行を積んだショコラティエが、最高級のチョコレートをお作りしております」
「確かにこれは素晴らしいな」
心から発せられた言葉だった。
ショコラティエ、という言葉自体に馴染みはないが、目の前に並べられたチョコレートの粒達は間違いなく美しい。いずれ形を失いゆくものを麗しく飾り立てようとするのは人間の性なのだろうか。どちらにせよ、人間贔屓びいきの大天使には魅力的に思えた。
店員の女性は目を細める。
「何といっても本日はバレンタインですし、特にお客様が多いですね」
「バレンタイン?」
おおよそこの場には似つかわしくない名に、はてと首を傾げる。
バレンタインとは確か、神の為に殉教した人間の男の名ではなかったか。おぼろげな記憶だが、いつぞやか天界で彼のアストラル体をちらと見掛けたことがある。
「ええ、その聖バレンタインの記念日なんです」
店員は今の時代、大の男がバレンタインデーを知らずにいたことに少々意表を突かれたようだったが、極めて真摯な態度で応じた。
「聖バレンタインはご存知の通り、兵士の結婚が認められずにいた当時のローマで、彼らの結婚を認めさせるために活動した聖人です。なので、彼が殉教した日を恋人達の記念日としたそうですね」
「なるほど。その『バレンタインデー』とやらが今日という訳か。
だが、それとチョコレートに何の関係が?」
複雑な心境で、彼女は曖昧な笑みを湛える。わざわざこの場で、チョコレート会社の陰謀が云々といったことを伝える必要はないだろう。興味津々といった様子でカウンターへ寄りかかる天衣無縫な男へ、彼女は彼女なりの最良の答えを返した。
「バレンタインデーに愛する人へチョコレートを贈ると、その人へ愛が伝わる、と言われているんです」
特に当店のショコラは恋が叶うと専らの評判で、と続けられた言葉は彼の耳に届くことはなかった。彼女の発言は予想以上に高名なる大天使の食指を動かした。
ルシフェルは整った顔を驚愕の色に染め、店員をまじまじと見つめる。店員は今更ながら彼の美しさに気付き頬を火照らせたが、天使の思考は既に別次元へと飛び去っていた。
網膜に浮かぶのは、遙か彼方の地で待つ男の姿だ。
『ルシフェル!』
金の髪を風になびかせ、振り向きざまに自分の名を呼ぶ無骨な男。子どものような魂と、老成した賢者の分別とを兼ね備えた人間。イーノックの顔を想起すると同時に、慈しみが胸を締め付ける。
この気持ちこそ、愛なのだろうか。
「……はは」
男が突然発した自嘲の笑い声に、店員が心細そうな仕草で眉を顰(ひそ)めた。
「いや、すまない。そうか。
『愛が伝わる』、成る程」
細く華奢な手で口元を覆い隠す。嘲笑に歪んだ唇は暫く元に戻りそうになかった。ルシフェルは目尻を下げ、ちらとガラスのショーケースを見る。
「うん、それなら、適当に包んでくれないか。君の個人的なお薦めで構わないから」
意外な言葉が返ってきたので、店員の女は困惑した様子で手を組み替えた。
「え?
私がお選びしてしまって宜しいのですか?」
「あいにく、こういうものには疎くてね。君の方が私よりも詳しそうだ」
苦笑いをして耳の横の髪を掻き上げる。
それは見方によれば、照れ臭そうにはにかむ男の表情にも見える。
「『愛する人へ』の贈り物だからね。一番いい物を贈りたいじゃないか」
店員はきょとんと天使の鼻を見つめ、それからふんわりと微笑んだ。聖母マリアにも通ずる完璧な笑みだった。
彼女は刹那のうちに、この見知らぬ客の背後に想い人の姿を見出し(もっとも、その虚像は可憐な女性の姿だったかもしれないが)、想い人へ上器用そうにチョコレートを渡す男の姿を見出した。そのとき彼女の心に、何か使命感めいたものが生まれたのである。
「分かりました。少々お待ち下さい」
彼女は慣れた様子でカウンター下へしゃがみ、自らの誇り高き使命に早速取り組むことにした。
ルシフェルは陽炎のようにゆらりと身を揺らめかせ、柔らかく壁へともたれかかる。腕を組み、表情を隠すように俯いた。
ああまったく馬鹿げたことだ。
愛の橋渡しはエロスの役目だが、彼の矢の先端に塗られているのは息も止まるほどの毒薬だ。巻きつけられているのは脈打つ心臓の鼓動を止めるほどの鋭い茨だ。あの毒矢と、エロスの手腕をもってしても伝えるのが難しい『愛』を、こんなちっぽけな菓子ごときがどうこうできるはずもない。
賢明な天使はバレンタインデーなどという人間が勝手に定めた記念日を信じた訳でも期待した訳でもないのだ。ただそれは単なる気まぐれで、少なくとも彼はそう思っている。
愛。愛ね。
ルシフェルは以前から、自分がイーノックを愛していることに気付いていた。
勿論それは親愛の情であるし、慈愛の情でもある。しかし最近ではそれらより、恋慕の情がいっそうの浸食を始めていることを自覚していた。もし彼に恋慕の気持ちが欠片もなければ、思慮深い大天使はこのようなオモチャじみた物体を買うことはなかっただろう。
静かに息を吐く。
人間、しかもよりによってあの朴念仁にこのような想いを抱くとは、私も落ちぶれたものだ。
「お客様、大変お待たせ致しました」
「ん、すまない」
気付けば宝石のようなチョコレート達はきちんと整列して箱の台座へと収まっていた。
こう見ると指輪でも買ったようだ、とぼんやり思う。店員の女は爽やかに笑みを浮かべ、詰められたそれらに白い指を向ける。
「ご説明致しますね。こちらがプラリネの入ったガナッシュ、こちらはボンボンショコラにオレンジピールを練り込んだもので……」
ルシフェルは大人しく説明を聞きながら、この話はあいつにしたところで無駄だろうな、という考えが頭をかすめる。どうせろくに聞きもせずに口へ放り込むのが関の山だ。そう思うと、それなりに愉快だった。
「……以上です。宜しいでしょうか」
「ああ」
「畏まりました。それではお包み致しますね」
見覚えのあるリボンが取り出され、赤い箱にしゅるりと掛けられる。綺麗にラッピングを施された箱は、ロゴの描かれたあの可愛らしい紙袋へ。
男の長身にはまるで似つかわしくない、小さな紙袋を手渡される。受け取ると同時に代金を支払った。用の済んだ長財布を尻ポケットへと滑り込ませる。
「ありがとうございました。お気持ち、伝わるといいですね」
ルシフェルは薄く笑うと、ビニール傘を広げ、街の雑踏へするりと溶け込んだ。もうもうと立ち込める雨煙の中、黒い人影が消えていく。
街にいる誰もが気付かぬうちに、ルシフェルの姿はその次元から跡形もなく消え失せたのだった。
数十万年前の二月十四日も、また雨だった。
洞窟の中、一人の男が焚き火を囲み、何する訳でもなく空を見上げている。待ちぼうけを食うのにはもう慣れた。天使は気まぐれなのだ。だが、彼がいなければ先に進めないことも確かだ。
以前、天使が留守の間に一人で背徳の塔へ挑んだことがあったが、数刻後にはにこりともしない大理石像に仁王立ちされていた。あれほど肝が冷える思いは、もうしたくない。天使の怒気は恐ろしいのだ、本当に。
それに、とイーノックは燃え盛る火を見つめる。
こうして彼を待つ時間も嫌いではないのだ。心は波のない水面のようになり、曇りのない己の想いと向き合うことができる。青年は寡黙ではあったが、沈黙の中に相応の愉しみを見出していたのだ。
ぱき、と地面に落ちていた枝が鳴る。洞窟の中から突如聞こえた音に、イーノックの胸は一気に高鳴った。
肩越しに振り返る。
案の定、暗がりに紛れて大天使が手を振っていた。白い陶器のような肌がゆらゆらと驚くほど眩しい。
「ルシフェル」
「戻ったぞ。すまない、待たせたか」
「問題ない」
ルシフェルはイーノックの隣に腰を下ろし、傍らに愛らしい紙袋を置いた。原始風景にポップなパステルカラー。どうも上釣り合いにも思えたが、幸い天使の陰に隠れて青年は気付かない。
「火を焚いていたのか」
イーノックは乾いた枝を投げ込みながら頷く。
「ここは風通しがいい。さすがに冷えてきたから」
「そうか」
剥き出しのイーノックの肌に、戯れのように大天使が触れる。生温い、低温動物のごとき体温が褐色の肌を温める。
絡みつくような甘い感覚に、純朴な青年は思わず身を強張らせた。ルシフェルに温められた血が体中の管を巡り、やがて心臓へ到達する。彼は息を呑んだ。思考の停止。
天使は小さく笑った。
「ああ、本当だな。まるで氷のようじゃないか。火に当たる前に何か羽織るといい」
あまりの動揺に言葉も出なくなる。頷くだけの人形と化した哀れな人間を横目に、ルシフェルは尚も笑う。
イーノックは自分に対して、同じく恋慕の情を抱いている。その想いに、聡明な大天使はとっくに勘付いていた。本人は必死に抑えているつもりだろうが、生来この男に隠し事ができるはずがないのだ。
火に当たりながら微笑みかけてやる。爪の先に血流が戻ってきた。
知りながら、踏み込めずにいるのはこちらの方だ。ルシフェルは己をせせら笑う。
天使と人間という種族差が彼を踏み止まらせている。残念なことに、ルシフェルもイーノックも理性的な性質だった。自らの本分を超えてまで手を伸ばすことはない。その臆病さが二人を、無理のある現在の関係に押し込めていた。
「そういえば」
咳払いを一つ挟み、イーノックが重い口を開く。
「今日はどこへ行っていたんだ」
「そうだな、ここから大体数十万年先の未来か。人で溢れていて少々辟易した」
「前々から思っていたが、それほど大規模な村が栄えているとは、未来はさぞかし資源に富んでいるのだろうな」
大天使は肩を竦めて返答の代わりとした。
ひゅう、と冷たい風が吹き込んでくる。同時に隣の紙袋が音を立てて自己主張を始めた。頭の片隅に追いやられていた存在を再認識し、赤い瞳が丸っこいロゴを映す。細い指がついと持ち手の紐を引く。
そのまま、何気なく紙袋を青年の方へ押しやった。
「そら、今日の土産だ。
チョコレートは君の好物だっただろう」
袋を差し出されたイーノックは、少しの間怪訝そうにそれを観察していた。しかし聞き覚えのある名称を耳にすると、途端にぱっと表情を華やがせて、
「『チョコレート』か!」
それから臆面もなくガサガサと袋を漁り始める。飛び付く姿は犬のようだ。見えない尻尾が惜し気もなく振り乱されている。
紙袋の中から箱が取り出され、破るようにリボンが解かれる。無残な包装材達は地面へ放り投げられたままだ。イーノックらしさに天使はくくと笑う。
箱の蓋が取られると感嘆の声が上がった。
たちまちのうちに青年は一粒を摘まみ上げ、口内へと放り込む。咀嚼する度に上品な甘みが口一杯に広がり、冷えた青年の体を温める。堪え切れず、イーノックは咆哮した。
「美味い」
「それは良かった」
ルシフェルは口端を吊り上げる。視線が捉えているのは、イーノックのチョコを持つ指先だ。
茶に染まった彼の指はやたらと美味そうに見えた。あの指は舐めたら苦いのだろうか。
目玉が飛び出るほどの高級チョコレートは恐るべき速さで消費されていく。物の価値が分からない男だ、と天使は笑う。いや、それとも。ブランド云々、ショコラティエ云々に価値を見出している人間の方が可笑しいのかな?
しかし、と天使は目の前の青年を見つめる。
愛が伝わる、か。
期待をしていた訳ではない、とルシフェルは誰が聞くでもない弁明を繰り返した。イーノックは多幸感に酔いしれた様子で菓子に没頭している。チョコレートは、ただの菓子だ。十分に己の使命を果たしたではないか。これ以上何を望む必要がある。
だから今自分が感じている失望は、まったくの筋違いに過ぎないのだ。
何とも馬鹿馬鹿しい。寡黙な青年がこれを口にして、愛らしく想いを語り出すとでも思ったか。鼻腔を枯れ葉の香りが通り過ぎる。
ぽすり。
肩に温かな重みを感じ、ルシフェルは無意識にそちらへ視線をやる。長い金の髪がさらりと鎖骨を流れていた。
目玉を転げ落とすほどの衝撃。大天使は思わず舌を喉に詰まらせそうになる。
「う、ん……」
もたれているのは間違いなく、イーノックの頭だった。
体重を預けるようにして艶やかな髪が肩を撫でている。
閉じられた瞼。睫毛までが満月色に染まっている。青年は存外に通った鼻筋をしている。向けられたつむじからは土の匂いが香った。
「イーノッ、ク?」
「何か、おかしいんだ。身体が……熱くて」
重たげに瞼が押し上げられると、とろんと潤んだ瞳が垣間見えた。
深海のような底の見えぬ色だ。上意に儚げな色気を感じ、見知らぬ男を前にしたようで戸惑ってしまう。血色の良い唇は薄く開かれ、熱い吐息が隙間から漏れる。悩ましい息遣いが仄暗い洞窟内を反響する。四方から襲い来る熱っぽい声は、ルシフェルの聡い耳を徐々に痺れさせていく。
イーノックの耳朶は赤く染まっている。頬骨の辺りも日に焼けたように朱色がかっている。
彼のあまりの変わりように呆気に取られていた大天使だったが、はたと役目を思い出した。
手の平を青年の額へ当てる。こちらも同様に熱く、しっとりと汗ばんでいる。思い切って顔を近づけてみると、甘ったるいチョコレートの匂いの中に微かな洋酒の香り。
まさか、と思う。
普段ならば笑い飛ばしていたことだろう。しかし心当たりはといえばこれくらいしか考え付かなかった。
ボンボンショコラに含まれていた僅かなアルコール分が、青年を酔わせていたのだ。
「弱ったな」
ぽつり、零れたのはルシフェルの本音である。まさか菓子に含まれている程度のアルコールで、大の男がここまで酔い潰れるとは思うまい。
だが確かにイーノックの生きた時代にはまだ醸造技術は存在していなかった。酒に免疫のない、いわば赤後同然の身体がアルコール分を分解できなかったとしても仕方がない。
イーノックは尚も頭を擦り付けている。シャツの襟元から髪が滑り込み、天使の意識を惹きつける。どうにか体を離そうとするのだが、意思に反してジーンズは地面に貼り付いたまま剥がれない。
「すまない」
熱に浮かされた声で彼が囁く。
「重いだろう、っ……すぐ、離れるから」
脳を直接揺らされるような甘い口調だ。生唾を飲み込む。
ルシフェルの頭には残響のようにある言葉ががんがんと響いていた。
愛が伝わる。
チョコレートは、愛を伝える――。
膝が冷えてくる。血がこめかみに集中する。
枯れ葉とチョコレートの香りが世界をすり替えていく。
もぞ、とイーノックが動き出した。潤んだ瞳がルシフェルを捕える。
藍晶石色。
ゆっくりと、その唇が弧を描く。口端にチョコレートが一欠片。
「ルシフェル」
男の鍵を外すには、その一言だけで十分だった。堤防はとうの昔から決壊寸前だったのだ。
名前を呼び終わるより早く、天使は青年の口元へと吸い込まれていく。青年の口端に蛇のような赤い舌を寄せる。舐め取ったチョコレートは酷く甘かった。
熱の濁流が彼らを押し流す。堰き止められていた流れは勢いを増し、一人と一匹を攫って行く。
ルシフェルの薄い唇は青年のそれに押し当てられたまま、彼の体温を奪い続ける。接触部分が離されることはない。二人きりの洞窟は静けさに満ちている。一際強い風が吹き込み、焚き火の炎を大きく煽った。
陰鬱な秘密に溺れそうな空間の中、そうっとイーノックの腕が青年の背中へと回される。
甘く、苦い香りがその場を覆い隠していく。神の目から逃れるようにして、一人と一匹は影となり夜となる。
いずれ訪れるだろう朝のことなど、今は考えられるはずもなかった。
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