※2011/2/11開催イベントで配布したペーパーに載せていたSSです。
 内容は発刊物『聖バレンタインの秘密』とリンクする部分がありますが、一応単独扱いをしております。
 ご了承の上、お楽しみ下さい。



 ――驚いた、と天使は思わず呟いた。目の前ではざらざらとした赤褐色の実がぶらぶらとその身を揺らしている。天使は手元で開いていた百科事典の頁を指でなぞり、もう一度目の前の果実と照らし合わせた。『赤褐色の実は枝、幹を問わずぶら下がるように生り……』間違いない。本当にあったのか。ここ天界にも、カカオの実が。
 エデンの園を、ざあ、と風が吹き抜ける。天使は好き放題なびく自分の髪を手で押さえ、そびえるように生える樹を見上げた。まだ熟していない実も多いが、ほとんどは濃く色づいている。これならば五、六採って行っても問題はないだろう。いや、それとも五、六では足りないのかな? 腕を組む。
 何せ、カカオの実からチョコレートなるものを作ったことはない。遠い、遥か遠い記憶の中で一度だけ、板状のチョコレートを刻んだ経験があるのみだ。

「確か、カカオ豆を焙煎して……それから発酵させる云々だったな」

 郷愁さえ感じる記憶を幾度も反芻しながら、あのときの言葉を思い出そうと努力する。
 ううむ。厳しい戦いになるのは避けられないだろうが、やってやれないことはないだろう。とにかく挑戦あるのみだ。決意に満ちた表情で頷くと、彼はそっと手を伸ばした。

 ぷちり。

 枝からもいでみると小気味良い音がした。握った果実の表面は荒く、水分を含んでしっとりと馴染む手触りだ。そこに生命の輝きを見た天使はにっこりと笑って、また一つと実をもいでいく。ぷち。ぱき。
 そういえば、若い果実は生食できるとか。視界の端で読み取った百科事典の情報をふと思い出して、ついと男の指が未だ熟していない果実へ伸びる。試しに一つ採ってみることにして、両親指を食い込ませつつ縦に割いた。黄色い殻は驚くほど硬い。薄い膜状の白い実を纏った種子がいくつも詰まっている。
 指先でちょいと種を摘まむと、前歯で剥がすように食んでみた。ほんのりと甘い香りが鼻腔を抜けていく。食欲を呼び起こすことはなかったが、何故だか少しだけ懐かしい気持ちになって、天使は緩やかに目尻を下げた。
 食べ掛けの黄色い実も籠へと突っ込んで、彼は採取の続きに勤しむことにした。
 夢中になって果実を採る荘厳なる男の姿を、楽園の牛が付き従うようにして見上げている。男からはミルクの臭いが仄かに漂っているから、牛は絶え間なく口を動かしながらも穏やかな表情で作業を見つめている。ひょい、ひょいとカカオを摘む天使の手付きは慣れたものだ。

「よし」

 ようやく満足行ったようで、男は額の汗を拭った。天使の体でも汗は出るのだなあ、などという疑問はとうの昔に掠れ消えるほど、彼は既に今の自分に馴染んでいる。
 あとは指南書を見ながら、焙煎? 発酵? そんなような手順を施せばいいだけだ。大丈夫だ、大事なことは全て本に書いてある。少なくとも彼はそう思っている。

「……っしょ、っと」

 竹籤で編んだ籠を背負いながら、天使は最後にもう一度カカオの樹を仰いだ。青々とした、瑞々しい葉だ。枯れたものは一片たりともない。今となっては自然なことのように思える。何といっても、ここはエデンの園なのだ。

「 “イーノック ”」

 不意に自分を呼ぶ声がしたので、天使はゆっくりと振り返った。黒髪の大天使が無頼のように立ちながら、ゆらりと手を振っている。彼はいつも音もなく立っているのだ。
 男は途端に嬉しくなって、筋肉質の体に見合わぬ動きで大天使の傍へと駆け寄った。

「ルシフェル、見てくれ。やはりあったぞ。カカオはエデンに生えていたんだ」
「やれやれ、本当に作るのか。どうせまた面倒なことになるぞ」
 メタトロンは懲りずににんまり笑うと、問題ない、といつもの調子で告げたのだった。




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