塔のバルコニーからぶらぶらと足を投げ出して、金髪の堕天使は空を見上げていた。黒い帳はレースのように夜空を覆い隠している。それでも網目から月が見えるので、サリエルはこうして空を眺めるのが好きだった。
 満月は好きだ。金の光は穢れもなく、かつての住処を想起させる。堕ち切った我が身に月の光はひりひりと沁みたが、それでもサリエルは日課を取り止めることはなかった。

「サリエル様」

 背後から声を掛けられたのでゆったりと振り返る。銀のヴェールのように薄い女が一人、ぬうっと立っていた。手には毛布を握っている。決して上質とはいえない、毛羽立った布だ。

「掛け物をお持ちしました。今宵は冷えますから」
「ありがとう」

 女はにっこりと微笑む。月夜に相応しい笑みだ、とサリエルは思った。彼女は足のない足で滑るように近付くと、そうっと毛布を彼に掛ける。彼女にとって、この堕天使の世話をできるのが何よりの喜びなのだ。たとえ命を失くそうともそれは変わらない。
 サリエルは自然な仕草で彼女の青白い手を取ると、爪についと口付ける。男の唇は薄く、がさついている。それでも女はこの上なく喜んで、血の気のない頬をぱっと華やがせた。

「先に眠っていろ。俺はもう少しここにいる」

 添い寝が無いのが不満だったのか、一瞬女は表情を翳らせた。けれど、すぐにまた気を取り直して幽かに笑ってみせる。

「それでは、そう致します」
「ああ」
「この旨、他の者にも伝えましょうか」
「頼んだ」

 サリエルは握っていた女の手を離し、切なげな目で頬杖をついた。満月は変わらず輝いている。かき消えるように女の姿が部屋から失せても、堕天使は郷愁に満ちた視線をバルコニーの外へ投げたままでいる。どんよりと暗い世界だ。光の筋さえなく、救いすら降りぬ夜だ。



 愛とはなんだろう。
 このところ、サリエルはずっと考えあぐねていた。愛とは高尚で、美しくもあり、儚いものだ。たとえるならば薔薇の花弁のようなもので、赤く透き通るような輝きを秘めている。サリエルはそう信じていたし、そのような愛を向けてきたつもりだった。
 だが、どうだろう。自分が愛した薔薇達は、枯れては朽ちていくばかりではないか。いくつもの薔薇を枯らしながらも、俺は新たな薔薇に口付けている。

 目頭を押さえる。
 肉の身体は重くて堪らない。そろそろ睡眠を摂るべきなのだろう。疲労とは恐ろしいものだ、サリエルは思った。若く麗しい姿のままでいる彼女達を見るたび、自分が老爺のように思えるのだ。

「愛しているよ」

 満月を見つめながら、サリエルはそうっと呟く。その言葉は幾人もの寵愛者たちに向けたものなのか、はたまた天蓋の向こうの父なる創造主へ向けたものなのか。堕天使自身にも分からなかった。

「愛。ふうむ、愛ね」

 唐突に低い声がしたので、恐ろしくなってサリエルはびくりと跳ねた。

「残念だが、私にはよく分からないよ。君は何か勘違いをしているんじゃないか?」

 飄々とした声。純白の響きを帯びた、誇り高き生き物の声。
 心臓が早鐘のように鳴る。気を抜けば有り合わせの肉体から飛び出してしまいそうだった。サリエルは壊れたブリキ人形のようになって、錆び付いた身体をぎりぎりと動かす。肩越しにやっとのことで振り返ると、その男は立っていた。

「――何故、君が」
「やあ。久し振りだな、サリエル」

 大天使ルシフェルはゆらりと手を振り、冷徹な瞳を僅かに細めた。

「挨拶に来たんだよ。それとも最後の忠告と言った方が正しいかな」

 赤目の男は天使らしからぬ黒いシャツをふわりと揺らして、椅子へ勝手に腰を下ろす。どかりと乱暴に扱われた椅子は軋んだ音を立てた。悪戯に爪を磨くルシフェルを、堕天使は張り詰めた表情で睨んでいる。

「エゼキエルが死んだぞ」
「……知っている」
「なら話は早い。数日中にイーノックがここへ辿り着くだろうからね。今のうちに君の顔を拝んでおこうと思ったまでだ」
「君のお気に入りが俺を殺す前にか。随分趣味が良くなったものだな、ルシフェル」
「君の趣味には敵わないよ」

 嘲るサリエルの皮肉めいた顔をさらりと交わして、ルシフェルは爪にふうと息を吹きかけた。
 目尻で穢れた堕天使を見やり、仄かな微笑みさえ浮かべてみせる。天使の頬笑みだ。美しく歪められた唇は三日月の形を模した。

「何せ、人間の女を食い散らかしているらしいじゃないか」

 ぶわっ、と。

 全ての血管が収縮し、熱いマグマのような血の流れが脳を突き上げたのが分かった。
 サリエルは反射的に蝙蝠を棘のごとく差し向けた。ルシフェルの座す椅子を抉るようにして、次々と蝙蝠が刺さって行く。堕天使は生来温厚で柔らかな性質だった。それでも大天使が戯れに放った言葉を赦せるほど、澄み切った余裕はもはや持ち合わせていなかった。
 蝙蝠の群れが飛び去ると、傷だらけの椅子が露わになる。ルシフェルは変わらずそこに座ったまま、髪の毛一本たりとも傷つけることはなかった。磨き終えた爪をジーンズで擦り、艶出しの仕上げに掛かっている。
 何食わぬ顔をして、天使は小首を傾げてみせる。

「駄々を捏ねるのは子どもでもできるぞ、サリエル」
「黙れ」
「誰に口をきいているんだ、穢れた堕天使風情が」

 ルシフェルはまるで怒っているような口調で咎めたが、両目はにやにやと笑っていた。どこまでも小馬鹿にされている。まともに相手にすらされていない。かつての同胞の冷ややかな表情は、サリエルの胸を予想以上に詰まらせた。
 ルシフェルは俺を見下している。じりじりと痛いほどに伝わってくる嘲笑と侮蔑。
 大天使は厳かに立ち上がる。するりと歩む足は音すら立てない。サリエルが瞬きをひとつをする間に、ルシフェルは堕天使の鼻先十センチにまで迫っていた。思わず身を仰け反らせると、男はやはり目を細めて笑う。

「私が教えてやろう。君がやっているのは愛を模した、ただのママゴトさ。
 愛、愛と五月蠅い割に、君が彼女らに与えるのは何だったかな?」
「黙れ」
「愛でもなんでもないんだよ、サリエル。君は単なる――」

 ルシフェルは蛇の舌のように赤い唇をそっと近付けて、甘く艶やかに囁く。眠る恋人に愛を囁くように、まるで毒を含んだ口付けでも与えるように。

「――セックス依存症だ」
「ッ……黙れ!」

 金の髪を振り乱し、サリエルは拳を上げた。それなのに拳はいとも容易く受け止められ、大天使の細い指先に拘束される。皮と骨しかない手首は少しでも力を入れれば簡単に折れてしまいそうだ。赤子の手を捻るような気楽さで堕天使の動きを封じると、ルシフェルはくつくつと笑った。
 心の底から愉快だった。自分の手の平の上で踊っている堕天使の哀れさも、涙の膜が張った金の瞳も。穢れに焼け焦げ、すえた臭いのする部屋さえ気にならないほど、今のルシフェルは高慢な悦びに満ちていた。

「セックスの為に堕天した天使か。ははは、まさか君が肉欲に溺れるとは」
「違う……違うっ」
「何が違うものか。現に君は人間に手を出しては子を産ませ――ネフィリムとか言ったかな、あの穢れた化け物だ――出産に堪え切れず母体が死ぬと、また次の女に取り換えるんだ。
 愛の堕天使? 恋の素晴らしさ? ちゃんちゃら可笑しいね。単なるセックス依存症だとどうして認められない?」

 噛み締めた奥歯からは今にも血が滲みそうだった。何故だ、何故、言い返せない。涙の膜をたゆたわせながら、爪が掌に食い込むほど拳を握り締めながら、サリエルは唇を噛んだ。言葉を紡ぐことはできなかった。彼は打ちひしがれていた。抵抗する気力すら湧き起こらぬほど、自責の念に苦しみ続けていた。
 違う。違うと信じている。俺が彼女たちに向けたのはそんな汚い感情ではない。もっと美しくて、可憐で、全てを幸せにするような……。

 君は狂っているよ。
 ルシフェルはばっさりと告げる。夢へ逃げ込む暇など与えるはずがなかった。
 君のいう愛は自己満足の産物だ。そんなものを貰ったところで、誰が幸せになるものか。
 嗚咽が漏れる。サリエルは息を詰まらせながら、ひゅうひゅうと掠れた音を立てて酸素を呑む。

「自慰なら独りでするがいい」

 大天使は尊大に言い捨てたが、そのときたまたまちらりとサリエルの表情が視界に入ったので、再び笑みを濃くする。
 こうして彼が訪れた目的は、堕天使を憔悴させることにあった。少しでも彼に余裕をなくし、この先訪れるだろう書記官との戦闘を有利に進めるための手札だった。ルシフェルの言葉でサリエルを追い詰め、イーノックの刃で肉体を切り裂く。今日のこの来訪は、来たるべきとどめへの布石程度にしか考えてはいなかった。

 だが、気が変わった。このままこの堕天使を削り取ってやろう。

 ルシフェルはパチンと指を鳴らした。取り巻く全ての空気が止まり、大天使がサリエルの長い金髪に手を掛ける。それから人目を忍ぶようにして、吐息と共にそっと囁いた。

「それともいっそ手伝ってやろうか。
 それで君の肉欲ゆえの被害者が減るのなら、神もお許しになるだろうしね」

 そうだ、そうだ。そうしよう。なあ、サリエル。こんなに月の綺麗な夜だ、愉快な遊びをしようじゃないか。
 愉しげに投げられた問いに返事はない。





 次にサリエルが意識を取り戻したとき、初めに視界へ入ったのは束ねられた自分の両手首だった。金の縄で縛られている――と思えば、その縄は自分の頭へと続いていた。紛うことなくその金の拘束具は、彼のぱさついた長い髪だったのだ。
 水気のない髪は編まれれば立派に手錠の役目を担う。捻っても、捩っても、縛られた拘束が解けることはない。下手に暴れれば頭皮が引き攣れ酷く痛む。

「やあ、ようやくお目覚めか」

 状況にそぐわない、のらりくらりとした声が飛んでくる。咄嗟に振り向くと髪を引っ張ってしまい痺れるように痛んだ。
 灯りの消された部屋の中、紅い瞳が猫のようにサリエルを見据えている。壁に陽炎のように寄りかかり、時間を操れる片手では惰性のままに携帯電話を弄んでいた。液晶には他愛もないWEBサイトが次々に表示されていくが、天使の興味を惹くようなものはない。




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