<背徳の塔>内での時の流れの仕組みについては、ルシフェルでさえ想像がつかなかった。分かるのは自分の感覚が通用しないことだけだ。このように淀んだ流れは今までに経験がない。時空は堕天使たちによってねじ曲げられ、彼らの都合の良いように作り替えられている。あるべき流れを堰き止め、汚らしい手で弄り倒しているのだ。でなければこれほどまでに澱が浮くものか。時間を司る大天使にとっては不快以外の何者でもなかった。
 気分が悪い。タワー内に身を置くだけでアストラル体に異常をきたす気さえした。ルシフェルは人間ではない。それゆえ、そもそも痛みなど感じられるはずがない。だが今は確かに耳鳴りを感じる。不穏な頭痛がいつまでも続くので、ルシフェルはうんざりと頭部を抱えた。電流の通った針金を耳から通されるような痛みだ。

 苛立ちに舌を打つ。胸糞が悪い。ここに理など存在せず、虫の良い話ばかりが転がっている。やれ愛だ、やれ進化だ。綺麗事ばかりを表に出して腐臭を覆い隠しているのだ。この世界は生命を食い物にしながら、時間を酸敗させている。

 ルシフェルは足元のクリスタルを蹴り飛ばした。光り輝く破片が舞い散る。
 あの男の為でなければ誰がこんな場所にいてやるものか。


 ピリリリ。
 尻ポケットの携帯が騒ぎ出した。電子音が頭痛に拍車をかける。大天使は眉間に深く皺を刻み、マナーモードを選ばなかった自分を恨んだ。電話の相手は分かっている。急ぐ必要もあるまい。波打つような疼痛をやり過ごそうと目を瞑る。こめかみが脈打つのを感じた。
 たっぷりと時間を掛けてから、ルシフェルは携帯へ手を伸ばした。なんとか通話ボタンを押す。急かすような電子音がようやく鳴り止んだ。

「やあ。……見ての通りだよ。ここの環境は劣悪過ぎる。さっきから眩暈が酷くてね。本当に腹立たしいな」

 声を抑えた含み笑いが受話器越しに聞こえてくる。彼は一層眉根を寄せた。普段通りの神の口ぶりさえいちいち癪に障る。

「仕方ないだろう。こっちはこの姿を保つのさえやっとなんだ。……五月蝿いな。そんなに言うなら君も来ればいいじゃないか。褒められはすれど、責められる所以はないよ」

 再び突き抜けるような痛みが走る。喉奥がむかむかとせり上がり、ルシフェルは今にも吐いてしまいそうだった。穢れは清らかな彼の神気を着実に蝕んでいく。自分が正規の時間軸の上に存在できないことが、ルシフェルの身体に想像以上の負担を与えていた。
 ぐう、と唸る。

「……分かってるとも。分かってはいるが、疲れてるんだ」

 大天使は何度目かの溜め息を吐こうとした。そうして顎を傾けようとした瞬間、視界の端に迫り来る人影が映り込んだ。ぼろぼろに剥げた純白の鎧。疲労にまみれた足取り。微かに清浄な空気が漂ってきたのを感じ、ルシフェルは視線をそちらへ投げた。
 イーノックだ。

「すまない。あいつが帰ってきたようだから、また後でかけるよ」

 電源ボタンを押す。神の密やかな笑い声がぷつりと途切れた。




 イーノックは疲れ果てていた。何処からともなく襲い来る悪意のこもった攻撃。鎧は容赦なく砕かれ、露出した肌にはいくつもの痣が浮かび上がっていた。その上休もうと目を瞑れば、たちまちネザー空間へ引き込まれてしまう。名実ともに追い討ちと呼ぶべきものだった。直接的な精神攻撃はイーノックの心を摩耗させていく。
 自らの全てをもって闘いながら、彼は憩いの場を探していた。彼には休息が必要だった。安心して背中を任せ、束の間の眠りを得ることのできる場所を求めていた。

 だから聴きなれた声が鼓膜へ届いたとき、イーノックはどれほど嬉しかっただろう。

「すまない。あいつが帰ってきたようだから、また後でかけるよ」

 大天使の声は心地良く染み渡る。返り血と泥にまみれた頬をふっと緩ませて、青年はほのかに微笑んだ。あれほど鉛のように重かった足さえ軽く感じる。イーノックは空中を蹴るような勢いで駆けて、黒き男の元へと急いだ。
 青年にとって博識な天使と持つ語らいの時間は、まさに憩いの一時だった。彼はあの親しい友人とすぐにでも言葉を交わしたかった。

「ルシフェル」

 息を切らせて飛び込んできた青年へ大天使は視線だけで応じる。

「やあ。遅かったじゃないか」

 実際のところルシフェルは大層機嫌が悪かった。頭は相変わらず慣れない痛みに悩まされていたし、辺りの瘴気はますます濃くなっていくようだった。だが残念なことに、イーノックは彼の不調に気付くことができなかった。彼を責めることはできない。イーノックの目も同じく疲労に濁ってしまっていたのだ。
 ルシフェルは無残に剥げた鎧を一瞥する。授けた護りは見るも無残な姿に成り果て、青く変色した痣が痛々しかった。

 一刻も早く眠らせるべきだ、と大天使は判断した。
 彼を眠りに就かせ、ガブリエルに祝福の光を注がせよう。睡眠は効率的に人間の体力を回復させることができる。これほど強い瘴気の中でイーノックを眠らせるのには少々抵抗があるが、やむを得ない。最低限動ける体力が戻ったら、場所を移動すればいいだけだ。それからでも遅くはないだろう。

「これは酷いな。ぼろぼろじゃないか」

 イーノックは気まずそうに片眉を下げて苦笑する。

「すまない」
「何を謝っているのかは分からないが、まあいい。
 ともかく眠るといい。火を熾してやろう」

 ぱちん、と天使が軽快に指を鳴らすと、小さな焚き火が出現した。急ごしらえなので勢いはそう強くない。だが温まるには十分だ。パチパチと枯れ枝がはぜながら、イーノックの肌を乾かしていく。

「ベッドもあるぞ。枯れ葉でこしらえただけだから、そう期待はするなよ。
 さ、泥のように眠って英気を養うんだ。私はあちらで番をしてくるよ」

 ルシフェルは立ち上がった。
 驚きと共に、イーノックは思わず手を伸ばす。歩き出そうとした大天使のぶらついている腕を掴んだ。手首をぐっと掴まれ、彼は不可解そうな表情で振り返る。
 書記官は困惑した顔でこちらを見上げている。

 暫く待ってもイーノックが何も言わないままだったので、ルシフェルは大袈裟に首を傾げた。角度を変えると脳が揺れて、振動で彼は余計に眩暈を酷くした。立ち眩みに片眉を吊り上げる。

「どうした、イーノック。私に何か言いたいことがあるのか?」

 不快感を語調に出さないように天使が問い掛ける。青年は躊躇いがちに彼を見つめ続けているが、何か言おうとする様子はない。
 ルシフェルは溜め息を吐く。

「お前らしくないぞ。大人しく寝ておけ」
「――話を」
「うん?」
「話を……したいんだ。眠る前に」

 天使は不審そうにしかめ面をした。この男は何を世迷いごとを、とでも言いたげに瞳を覗き込む。これが冗談のつもりならば笑えない冗談だ。人間ではないルシフェルにとって、青年の意図を汲み取れない事例は今までにも数多くあった。だが、今回は特別に分からない。

「眠ってからでも構わないんじゃないのか。今のお前には何よりもまず睡眠が必要だ。お前だって分かってるはずだろう」

 イーノックは首を横に振った。痛みの影響か、それとも穢れが後押ししているのか、ルシフェルは小さく苛立った。せっかく自分が効率的な順序を示しているというのに、と口角が下がる。青年の気持ちを汲んでやれる余裕は今の彼にはない。
 赤い瞳を翳らせながら、優しい口調を作って再度問う。言葉尻には幼子に言い聞かせるような響きがあった。

「何か聞きたいことがあるなら、後で時間を作ってやろう。私が知りうることなら何でも答えてやるよ。だが今は休息を取るべきだ。私が近くで番をしておくから、それならゆったり休めるだろう?」

 イーノックは再び首を横に振る。
 書記官にとっては、ほんの数分でもいい、ルシフェルと共に語らう日常が欲しかった。それこそまさに青年にとっての休息だった。何気ない出来事を語り合い、傍に寄り添う。それだけで、その後取る睡眠の質さえも変わるのだ。そのことを人間であるイーノックはよく理解していた。

 だが、ルシフェルにとっては束の間の語らいなど取るに足らないことだ。睡眠を遅らせてまで必要なことだとは理解できない。ゆえに、イーノックが自分の言葉を突っぱねたことに対して激しく苛立った。

「私はお前のことを考えているつもりなんだが」

 冷ややかに大天使が言う。静かな怒りさえ含んでいる。

「それとも、私を困らせて楽しんでいるのかな」
「! 違う」
「どうだろうな。お前がそんな奴だとは思いたくないが」

 瘴気の下卑た臭いがルシフェルの鼻を刺す。余計に具合が悪くなりそうだ。タワーも階を追うごとに穢れの力が増していく。弱る我が身に腹が立って仕方がない。本来であればこの程度、影響を受けるはずもないのだが。
 神に力の制御を受けているせいだろうか。

「悪いが、今日の私は機嫌が悪いんだ。ワガママは後にしてくれ」

 ルシフェルは拘束を振りほどいた。イーノックの手が強制的に離される。
 青年は痛手を受けたような顔をして天使を見る。ショックを帯びた視線が突き刺さるのも構わず、ルシフェルは踵を返した。

 もはや、こうして苛立っている自分自身に苛立ち始めている。今はこれ以上近くにいるのは得策じゃないな、と彼は思った。このままでは苛立ちのままみっともなく当たってしまいそうだ。そして、それは誰が望むところでもない。
 苛立ちも痛みも、全てはこの穢れのせいだ。時間が経てば自浄作用が働くだろう。力は抑えられているが、腐っても大天使なのだ。この程度の穢れに屈するはずがない。
 どちらにせよ番をするつもりではいる。書記官との距離を取るため、天使は足早に歩き出す。


 そのときだった。


「ルシフェル」

 わなわなと震える唇でイーノックがぽつりと呟く。
 呼び止められた男は振り向きもせず、ただその場に足を止めた。

「あなたは……あなたは、何も分かっていない」

 自らの言葉を恐れるような慎重さで、彼は言葉を紡いだ。碧色の瞳が小刻みに揺れている。表情は哀しげで心の傷に満ちていた。



「――『分かっていない』?」


 ルシフェルが青年の言葉を繰り返す。温度のない声色に、イーノックはぞくりと背筋を強張らせた。感情も色もない、まるでテープレコーダーのように事務的な繰り返し。
 大天使は厳かな素振りで、ゆったりと振り返った。
 濃いルビー色の瞳。その中に暗く鈍い光を見出して、イーノックはもう一歩も動けなくなる。

「ああ。分からないよ。私はお前たちとは違うからね。……だが」

 ルシフェルは軽やかに指を鳴らした。ぱちん。
 次の瞬間、彼の身体は書記官の胸元に飛び込んでいた。青年は驚きのあまり身体を仰け反らす。いや、正確には反らそうとした。しかし彼は自分の身体が動かず、後ろについた手が砂を掴んでいるのを知った。

 押し倒された。

 大天使の整った顔が鼻先にまで迫っている。苛立ちと暗い愉悦に満ちた眼差し。

「何を」

 唖然とするあまり言葉がこぼれ落ちてしまう。

「あなたは、え、どうして」
「眠りたくないんだろう? なら、少し付き合ってくれてもいいだろう」

 にこり、暗澹たる微笑みが浮かぶ。

「機嫌が悪いと言ったじゃないか。私にも気晴らしが必要でね」

 ぐわん、と頭痛が増す。三日月型の唇は痛みに若干ひしゃげた。
 怯えた目をするイーノックは愉快だ。ルシフェルは押し殺したような笑い声を上げて、押し倒した身体へ更に深く踏み込む。頭を押し付けると唇が重なった。

「んん!」

 青年が唸る。くぐもった呻き声はくちづけに掻き消されてしまった。天使の薄い唇は全てを奪っていく。混乱と動揺でいっぱいになって、イーノックはぎゅっと目を瞑った。息ができない。唇は押し付けられたままだ。
 ルシフェルの唇が開かれる。

「ふぁ」

 情けない声と共に、青年はつられて口を開いた。
 開かれた機を逃すことなく、大天使の舌がぬるりと滑り込む。甘いような、冷たいような触感に思わず硬直した。目の玉が転がり落ちそうなほど大きく見開く。舌の先は歯列をなぞるように蠢いて、やがて上顎をちょいとつついた。

「あ、ふ」

 イーノックは唇を閉じようとするのだが、挿し込まれた舌がそうさせてはくれない。頬の内側、舌の裏に至るまで、舌は容赦なく彼を犯していく。呼吸をするのもやっとだ。青年は驚きに目を見開いたまま、視界で揺れる黒い前髪を見つめているしかできなかった。
 ようやく唇が離されたときには、イーノックはずるり、と体勢を崩してしまった。我が身に何が起こったのかもよく分からない。唇には柔らかいあの感触がまだ残っている。分かるのは、目の前の男がはっきりと苛立っていることだけだ。表面だけの笑顔を恐々と眺めながら、ぼうっと大天使を見つめる。

 蕩けきったお堅い書記官の顔は、ルシフェルの嗜虐欲を僅かに満たした。気分と同時に痛みも紛れたような錯覚を覚える。だがくちづけをやめた途端、辺りを漂う臭気に再び気付いてしまった。
 こいつはいい気分転換だ、とルシフェルは思った。
 イーノックがそのつもりなら、こっちだって好きにさせてもらうさ。

 ルシフェルは噛みつくように再度くちづけを落とす。今度こそ青年は何が起こっているのかを完全に理解し、慌てて身をよじらせた。

「ルシフェル!」
「口数が多いな。いつものように黙っていろよ」
「駄目だ、こんなことはっ」
「駄目かどうかは彼が決めるさ」

 ルシフェルは天井越しに遙か遠くにある天界へ目をやった。咎める声は降ってこない。それどころか、携帯が震える気配さえなかった。高尚なる大天使はニヒルに笑う。そうして彼は赦しを必死に乞うイーノックの喉へ犬歯を突き立てた。

「うっ」

 青年は鈍い痛みに思わず呻く。弾力のある筋肉へ鋭い犬歯が食い込んだ。首筋の血管が圧迫されているのを感じる。眉間に眩暈が訪れた。幸い皮膚は裂かれていないようだった。

 恐ろしい、とイーノックは身を震わせた。戦いの最中に感じる恐怖とは異なる類のものではあったが、しかしそれでも恐怖には違いなかった。何か大きな、畏怖に満ちたものに命を握られている。その感覚はまるで、蛇に見据えられた小鼠の心地に近かった。
 手指がぴんと張る。さあっと血の気が引いていくのが分かる。

 ルシフェルは犬歯を滑らせながら、舌先を筋肉の窪みへと沿わせた。汗と穢れの混じり合った嫌な味だ。しかし、独特の芳香は天使を酔いに狂わせる。自らの体温より低いぬめりを感じてイーノックの背が毛羽立つ。

「……っ……」
「静かな方がお前らしいよ」

 ルシフェルは薄く笑った。爛々と光る赤い瞳。目を細めながら彼は青年の耳元へ指を伸ばした。耳の輪郭をなぞりながら、爪が耳たぶを引っ掻く。女のような長い爪はひりつくような痛みをイーノックに与えた。
 唇は滑り降りていく。ルシフェルは青年の鎖骨の窪みへ舌を押し込んだ。

「泥臭いな」

 イーノックは羞恥に顔を背けた。自分より清い生き物に蹂躙されるのは、自らの汚らわしさをまざまざ見せつけられている気分になる。

 破れた鎧の隙間から、するりと白い手が滑り込んだ。ひやりとした手のひらが胸元を撫でるのでイーノックの後頭部が粟立つ。ルシフェルは筋肉質な青年の胸板を撫で回す。そんな最中、指先が突起を捉えた。ぴんと立った乳首は指に次々と引っ掛かる。
 快感とも言いがたい、微弱な刺激。

「う……」

 イーノックは身をよじった。違和感が警鐘を鳴らす。

「どうだ? 人間はここを弄られると快感を感じるそうじゃないか」
「そんな、ところ……」
「おかしいな、感じないのか。お前だって全く経験がない訳じゃないだろう」

 陰鬱に微笑みながら、ルシフェルが爪で突起を掻く。先程よりもよほど強い刺激が走った。

「!」
「なんだ、感じるじゃないか」

 天使は図に乗って爪を往復させる。その度にぷっくりと膨れた乳首は掻かれ、再びピンとしこり立つ。

「強くされる方がいいとは、お前もなかなか好き者だなあ」

 指の腹で潰すようにこねくり回される。イーノックはいやいやと首を振った。言葉も出ない。なんとか押し退けようと試みてはいるのだが、圧倒的な威圧感の前には為す術もない。
 ルシフェルは鎧を上から手をかざした。おざなり程度に残されていた上半身の鎧が、淡雪のように溶けて散る。赤く腫れた二つの突起があらわになった。

「哀れだな。こんなに腫れてしまって」

 そう言って、天使は舌なめずりをする。赤い唇、赤い舌。

「慈悲を掛けてやるよ」

 ルシフェルはそっと唇をイーノックの乳首へ寄せた。濡れた唇が突起を食む。包み込まれるような快感が書記官の脳を快感に揺らした。

「くっ!」

 赤い唇は柔らかく乳首を咥え、扱くように吸い上げる。時折先端に当たる前歯は強過ぎる快感を生んだ。やがて唇を割るように舌先が現れ、彼の赤い腫れ物がやわやわと押し潰される。指よりは甘い潰し方にも関わらず、ねっとりとした感触には身が震えた。反対側の胸は絶えず爪の先で引っ掻かれるように愛撫されている。

 イーノックはすぐにでもこの場から消え失せてしまいたかった。せめて、と二の腕で顔を覆う。羞恥に絞め殺されてしまいそうだった。

「余計に腫れるか。見ろ、すっかり立ち上がって」
「ルシフェル。やめてくれ……あなたの気を害したなら、謝るから」
「残念だがまだ気が済みそうにないんだ」

 胸板に顔を埋めながらルシフェルは答えた。
 頭は未だ酷く痛む。眩むような熱とうまく定まらぬ焦点。悪酔いのような吐き気は天使を尚苛立たせる。それでも自分の手のひらの上で目の前の男が踊らされているのは、見ていて大層気分が良かった。触れた部分から伝わる汗ばんだ体温。定期的に震える脈動。ルシフェルはそれらに自らの苛立ちを肩代わりさせながら、沸き起こる不快感をやり過ごす。
 腹筋の割れ目をなぞる。じっとりと汗が滲んでいる。腰骨の僅かなくびれを撫でると、イーノックはもじもじと腰を揺らした。
 もどかしそうな仕草にルシフェルは呵々と笑う。

「なんだ。お前の方こそ、このままじゃ気が済まないんじゃないか」
「ッ! そんなことは!」
「口ではなんとでも言えるさ。確かめてやろう」

 手慣れた様子でジーンズのボタンを外す。ジーンズの腰回りは汗でほのかに湿っていた。チャックをゆっくり下ろしてやる。羽虫のような音を立てながら前が開かれると、中に仕舞われていたイーノック自身が顕になった。

「ほら。触ってもいないのに硬くなっているじゃないか」
「言わないで……くれ」

 恥ずかしさのあまりイーノックは手の甲で顔を覆った。耳の端までが赤く染まっている。ルシフェルは遥か未来のチョコレート菓子を思った。
 ゆる、と勃ち上がりかけている幹を柔らかく掴む。巻きつけられる指の冷たさにイーノックは身を震わせた。揺れるように脈打つのは生命の証だ。浮いた裏筋を人差し指の腹でなぞり上げる。

「うっ……く」

 青年は目を伏せている。金の睫毛が羞恥を孕む。
 ささくれ一つない、滑らかな指先。親指で先端をぐりぐりとこね回しながら、他の指は勃起を促すように波打つ。鼓動と同じリズムで揉みしだかれているうち、徐々に肉棒は硬度を増していく。

「熱を帯びてきたぞ。火傷しそうだ」

 飄々と言いながらルシフェルは彼のものを上下に扱き始めた。

「あっ、っく、あ」

 苦痛を帯びた呻きが漏れる。ぬめり気がないからだろうか。摩擦が強すぎるせいで、快感というよりは痛みに近かった。ルシフェルの指が滑る度、ひりつくような痛みが股間を突き抜ける。逃れたくて身をよじっても手が離される様子はない。

「るし、ぁ……っ、痛……!」
「なんだ。ワガママな奴だな。痛い方が好きなんじゃなかったのか?」

 ぶんぶんと首を横に振る。

「なら、仕方ないな」

 ルシフェルは上下に扱く手を緩めた。連続した痛みの中断に、イーノックの唇から安堵の吐息が漏れる。まだ皮膚の薄い部分は刺激に疼いていたが、それでも一時の解放には違いない。

 だが、解放の時はほんの僅かだった。
 大天使はイーノック自身を口元へ近付ける。あ、と思う間もなく、開かれた赤い唇が先端を飲み込んだ。

「ああっ!」

 それまでとは比べ物にならないほどの快感。痺れるような悦楽が腰の奥を突き抜けていく。ぬめった舌先が割れ目をなぞると、イーノックは声をあげて両足を震わせた。尿道口から先走りがじわりと溢れ出す。
 半勃ち状態だったイーノック自身も、今はすっかり勃起しきっている。硬く脈動する肉棒は青年の意思と反して、次々と与えられる快楽に打ち震えていた。ルシフェルの口内は柔らかく、包み込むように幹を締め付ける。下唇が浮いた血管を扱くので、押し寄せる射精感にイーノックは必死で堪えるしかない。舌が先端をちろちろと舐めては、また根元付近を這う。

「ルシフェル、ルシフェルッ」

 悲痛と快感に満ちた声でイーノックが喘ぐ。連ねられる名前は赦しを乞うように響いた。大天使は素知らぬ顔で愛撫を続けている。先走りを吸い出そうと唇をすぼめれば、後から後からだらだらと蜜が溢れてくる。ルシフェルは粘り気を帯びたそれを舌の上で転がした。そして飲み下そうとしたとき、ふと気付く。

 あれほど酷かった頭痛や苛立ちが、酔いが醒めるがごとく消え失せていた。
 ルシフェルは思わず咥えていたイーノック自身を取り落とした。あれほど堪えていた胸のむかつきも、今は遠い過去のようだ。
 ルシフェルはのそりと自らの肩口へ視線をやった。イーノックの抵抗の意思を宿した手が、ルシフェルの肩を掴んでいる。伝えられる体温は清らかで心地良い。

 浄化、されたとでもいうのだろうか。大天使であるこの私が。



 ぱたり。


 イーノックの胸元に置いていた手へ、不意に生温かい雫が落ちてくる。茫然自失となりながら、大天使はふと手元を見た。大粒の雫が散った跡。雫の出処を探して視線を上げる。
 雫は涙だった。イーノックが歯を食い縛りながら、子どものようにぼろぼろと泣いている。その涙がぽたり、ぽたりと落ちてはルシフェルの手の甲を濡らすのだ。

 困惑と悦楽と自責に苛まれた顔は火照ったように上気している。潤んだ瞳。怯えた唇は呼吸も精一杯で、わなわなと小刻みに痙攣していた。乱れた吐息は熱い。

「ルシフェル……私が、私が悪かったから……」
「……イーノック」

 アストラル体でできた身体は冷静さを取り戻しつつある。だが不思議なことに、頭は混濁しているのを感じた。イーノックの痴態をまじまじと見ていると、なんとも言えない嗜虐心が刺激されるのだ。この敬虔で屈強な男にあられもない顔をさせている。その事実はルシフェルの精神をぞくぞくと駆り立てた。
 ルシフェルは身を起こした。組み伏せた青年の耳たぶへくちづけを落とす。先程までとは異なる、優しいリップ音が鼓膜を震わせた。

 イーノックはたじろいだ。しかしくちづけのせいか、涙の勢いが弱まる。

「すまない。虫の居所が悪かったんだ。苛立ちを君にぶつけるとは、私も存外不甲斐ないな。痛かっただろう」

 柔らかな微笑みをたたえたまま、ルシフェルは指先を伸ばした。未だ存在を主張し続けている胸元の突起を穏やかに撫でる。新たな快感を生むには些細過ぎる刺激。既に欲情してしまっているイーノックにとっては辛い気遣いだった。

「だいじょう、ぶだ」
「調子に乗って強く抓り過ぎてしまった。ほら、爪痕が残っている」

 ルシフェルは突起を撫でさする。青年はそんな慈しむような愛撫だけではもう物足りない。言いづらそうに太腿同士を擦りつけて、微弱な快感を追っている。ふるふると揺れる肉幹からは透明な汁がしどどに流れている。泣いているようにも見えた。
 何も分からない振りを続けながら、ルシフェルは肌蹴たジーンズに手をやる。開け放したチャックを上げてやろうとしたのだ。

「待っ……!」

 咄嗟にイーノックは彼の手を制そうした。そして自らが発した言葉に気付き、顔面を真っ赤に火照らせた。

「待つ? 何を待てばいい?」
「違う、わたしは」
「君には散々酷いことをしたからね。いくらでも待つよ」

 ファスナーへ掛けた指をそのままに、ルシフェルは書記官の顔をじっと眺めた。情欲に潤んだ瞳が気恥ずかしそうにこちらを盗み見ている。露出した彼自身は硬く勃起したままだ。萎える様子はなく、それどころか、焦らされることによってますます大きさを増しているようにも見える。
 何か言おうと口を開きかけては、再び一文字に閉じられる。息は上がり、熱っぽい吐息が唇の端から漏れ出る。

 頃合いを見計らって、ルシフェルはファスナーに掛けていた指を滑らせた。そして、いきり立つ肉棒を掠める。

「ぅあっ!」

 待ち望んでいた刺激が唐突に訪れたので、イーノックはがくんと腰を揺らした。更なる快感を追おうとみっともなく腰を前後させたが、既にルシフェルの指はない。
 イーノックは自分がぐしゃぐしゃになるかと思うほどだった。背徳感と羞恥、堕落した悦楽とがぐるぐると混ざり合い、彼の精神を犯していく。股間では男根が激しく脈打ち、亀頭からは涎のように汁が溢れていく。倫理感は砕けつつあった。

 大天使から与えられる快感が欲しい。

 慎み深い恥の殻が、内側から破られた。

「――てほしい」

 ルシフェルは笑みと共に再度聞き返す。

「聞こえないよ」
「最後まで、して欲しい」
「君が望むなら」

 ルシフェルは愉快そうにほくそ笑んで、彼のジーンズに手を掛けた。一気にずり下げる。湿ったデニム生地は膝で一度引っ掛かったが、構うことなく片足分だけを完全に脱がした。丸まったジーンズが片足首に残されたまま、悪どい天使は青年へ覆いかぶさる。
 最後の服さえ失ったイーノックは戸惑った。不安げな声色で青年はおそるおそる問い掛ける。

「どうして服を」
「どうしてって、最後までしたいんだろう? そう案じなくとも君の望む通りにしてやるさ」

 飄然とルシフェルは言ってのけた。イーノックはといえば、顕にされた下半身が冷えて仕方がない。大天使は彼の内腿を撫でさする。するりと中央部に手が滑り込むので、イーノックは思わず足を閉じそうになる。それを柔らかく制しながら、ルシフェルはゆっくりと両足を押し広げた。勃ち上がった彼自身を隠すものは最早ない。羞恥にイーノックは顔を歪めたが、今はなされるがままになっている。その先に快楽があることを知っているからだ。
 無条件で身体を開くイーノックにルシフェルは退廃的な愉悦を感じた。逸る心持ちを抑えながら、彼は悠然と笑ってみせた。自分が示す道に何の間違いもない、とでも言うように。それは恐ろしいまでに妖しく淫靡な笑み。
 ルシフェルはおもむろに自らのジーンズへ手を掛けた。静かに鉄のボタンを外し、ファスナーを引き下ろす。ジジジ、とエッジの鋭い音が響く。

「お望み通り、『最後まで』ね」

 イーノックのものよりも一回り大きい、屹立したルシフェル自身が現れた。怒張した大きさは彼の誇りの象徴だろうか。書記官は唖然とした表情で天使のそれを見る。汚らしい印象は受けないが、どこか造られたものであることを感じさせる無機質な見た目。血など流れていないはずなのに、脈打っているのが不思議だった。

「そう物欲しそうな顔をするな」

 ルシフェルはくつくつと笑いながら、自身の先端を円を描くように撫でる。美しい顔には似つかわしくない凶悪なものが天を指していた。亀頭は艶やかに曲線を描いている。

「ねだらなくとも、すぐにやるよ」

 イーノックは困惑した。掛けられた言葉の真意が読み取れなかったのだ。あどけなく小首を傾げる書記官の頭をぐしゃりと掻き混ぜる。汗に湿った金の髪が指へ絡んだ。
 絡みついた髪をほどいて、ルシフェルは白魚のような指を伸ばす。イーノックの膝の裏を撫で、内腿を伝う。爪の先が褐色の肌へ白く線を描いた。足の付根にある窪みを触ってやると、もどかしそうに腰が揺れた。そのまま指は、下へ。

 する、と尻の割れ目をなぞる。途端にイーノックはハッとした表情を浮かべて、臀部の筋肉に力を込めた。

「や、いやだ」

 本能的に拒否感が沸き上がる。けれどルシフェルは平然とした顔のまま、半ば無理矢理に手を差し入れた。固く締まった蕾を探り当てる。指先で蕾の皺をなぞってやると、青年は余計に慌てて身を引こうとする。だが大天使が腰を押さえているものだから逃れようがない。
 つぷ、と爪の先が蕾へ挿し込まれた。

「ぐぁ!」

 喩えようのない不快感と、圧迫感。自分の内臓を直接掻き混ぜられているような感覚がイーノックを襲った。今までに経験のない類の悪寒だ。爪先が緊張にぴんと張る。筋が伸び切るまで伸ばしても、後ろの違和感は紛れてはくれない。

「おっと、すまない」

 ルシフェルはさらりと言いながら、おもむろに指を抜く。

「濡らしておくのを忘れていたよ」

 大天使は人差し指を咥えた。続いて、中指。指の間に舌を這わせながら、たっぷりとその上に唾液を絡めていく。ゆっくりと引き抜いてみると、白い指と唇の間を銀の糸が繋いだ。
 十分に濡れた指を再び蕾へと近付ける。唾液を塗りつけるようにして、堅い皺を揉みほぐしていく。

「は、ぁ」

 入り口付近を行き来する指先に、イーノックは翻弄されてしまう。不快感は先程よりは薄れていたが、これから何をされるか分からない恐怖は今も続いていた。何故この大天使が自分の尻にそれほどまで執着するのか、知識に疎い彼には理解が至らない。
 指はぐねぐねと蛇のように中を押し広げる。筋肉で固く締まった蕾は開く気配すらなかったが、ルシフェルは気長に揉み広げ続けた。時折イーノックの前が萎えそうになるのを咥えてやりながら、後ろの指は緩やかに動き続ける。
 生かされたまま殺されているような気がして、イーノックはぐっと眉根を寄せた。指が第二関節まで突き入れられても、彼には抵抗する術がない。

 だいぶ後ろがほぐれてきたのを確かめると、ルシフェルは指をゆっくりと引き抜いた。抜き切る寸前、内壁が指へ食いつくように締まる。
 イーノックの顔はだらしなく上気していた。指が抜かれた後も異物感が続くので、彼はもどかしく内腿を揺らした。ほぐされた入り口は意思を持っているように蠢く。しかも動くたびにじんじんと痺れるのだ。それが単なる嫌悪感からなのか、それとも感じたことのない快感によるものなのか。彼には判断がつかなかった。

「そろそろかな」

 他人事のように言いながら、ルシフェルはさらけ出したままの自分自身へ手をやった。更なる怒張を促すように二、三度扱く。
 そして、ぴったりと先端をイーノックの蕾へ押し当てた。

「イーノック、力を抜くんだ」
「ルシフェル……――ッ?!」

 自重をかけ、彼自身で蕾を押し広げながらルシフェルは身体を沈めて行った。既に蕩けていたイーノックの後ろはそれを押し出そうともせず、天使の先端を徐々にだが受け入れていく。
 イーノックは息を止めた。全身に力が入る。硬直したようにピンと四肢を伸ばしたかと思えば、すぐに腰を引き始めた。

「はぁっ! っぁ!」

 混乱のままにがたがたと奥歯を鳴らす。指を入れられたときとは段違いの違和感。これ以上なく広げられた括約筋は引き攣れるような痛みを生む。直腸を抉られるような異物感を感じて、生理的な涙がぼろりと落ちた。
 ぞくぞくとルシフェルの加虐心が煽られる。誠実で寡黙な男を組み敷いて喘がせるのは極めて小気味良かった。アストラル体でできた心臓も愉楽に高鳴っている。眼光煌々と組み伏せた青年を眺めながら、天使は首筋にむしゃぶりついた。ほぼ真上から一気に肉棒が突き入れられる。

「ぐああぁ!」
「ああ、イーノック、お前は本当に」

 口角は上がりきったまま戻らない。

「本当に、可愛がりたくなるよ」

 逃げようとする腰を引き寄せて、身体の最奥を突いてやる。内壁は侵入する異物を押し出そうと蠢くのだが、それは天使に快感しか与えなかった。凄まじい圧迫感がイーノックを襲う。痛みと圧迫感がないまぜになって青年は頭を掻き乱した。呼吸は浅く、せっかちに繰り返されている。

「ふっ、あ、あ、ぅあ」

 開け放たれたままの唇の端から、つうと銀の雫が落ちる。
 ルシフェルは腰のグラインドを弱めた。肉壁の上部を小刻みに擦る。先刻よりはだいぶ負担が少なくなったからか、食い千切ろうとするかのごとき締め付けも緩まった。ごり、ごり、と一定の間隔をもってイーノックの内部が擦られる。

「う……」

 イーノックは波のように襲いくる痛みの中に、何か別の感覚が侵食し始めるのを感じた。
 それは甘い疼きだった。ルシフェルの先端が上部を擦るたび、痛みを凌駕するほどの疼きがじわじわと広がる。ぬるま湯のような温かさと、粘ついた快感。内壁はもはや肉棒へ絡みつくだけになっていた。異物を認識した蕾が最奥からとろとろと腸液を分泌し始める。イーノックの身体が、ルシフェルを受け入れる準備をしているのだ。

 滑りの良くなった肉壁の中を擦ろうと、徐々にルシフェルが動きを速めていく。腰のグラインドを強めると、肉棒を引き出すと同時に水音が響いた。

「あ! あっ!」
「よくなって、きたかな」

 跳ねる青年の腰を地面へ押し付けて、食い散らかすように何度も自身を突き入れる。角度を変えても蕩けた表情は変わらなかった。悦楽を堪えているような苦悶の表情。開いたままの唇へ、ルシフェルは無意識の内にくちづけを落としていた。まるで慈愛のような接吻。
 獲物へ向ける目だけは爛々としながら、ルシフェルが小さく呻く。満たされる悦びに自分さえ流されてしまいそうだった。
 そこへ、イーノックの腕が伸ばされる。縋るような腕だ。褐色の両腕は広げられ、覆い被さるルシフェルの肩をぎゅうと掴む。強く握られた肩へ目をやり、天使は青年の表情を見る。

 唾液と涙にまみれ、ぐちゃぐちゃに乱れた表情の中に、ひときわ光るもの。


 ――切なげな視線に真正面から射抜かれた。


「ッ……イーノック!」
「うっ、ああぁあぁ!」

 ルシフェルは無我夢中で腰を速めた。それまでの余裕ぶった苛虐の動きではない。明らかに自分の為の満足を求めて、天使は人間の蕾を抉った。ずちゅ、ずちゅと淫靡な音が接合部で響く。青年を独占するように覆い被さって、ルシフェルはイーノックにしがみついた。自分より低い体温に包まれて、イーノックは飛びかけていた意識を戻す。

「イーノック、君を」

 彼はうわ言のように囁かれる音をぼんやりと聞いている。

「君を、私は」

 ルシフェルは切羽詰った声を搾り出しながら、尚も腰を止める様子はない。彼の細い肩を両腕で抱く。崩れ落ちそうになっている天使を支えているようにも見えた。
 ――すまない、と彼の口が動いた気がした。だが、もしかしたら見間違いだったのかもしれない。天使はイーノックの最奥を擦り上げ、青年の意識を再度飛ばしてしまった。泥にまみれた汗が散り、がくん、と首が後ろへ落ちる。

 ルシフェルは動きを止めた。止めた後も彼は暫くの間、意識を失った褐色の腰を掴んでいた。




 気だるい空気の中、ピリリ、と携帯が鳴る。
 消耗しきった大天使は鬱陶しそうに片目を細めた。小言に決まっている。できれば取りたくないのだが、先延ばしにしていても仕方がない。
 溜め息をひとつ。芯を失った腕をゆらりと伸ばし、ジーンズの中の携帯電話を探り当てた。折り畳み式のそれを開き、耳に当てる。

「君か。小言は後にしてくれないか。叱られるのにも心の準備というものが必要でね」

 だが、電話越しに聞こえてくる声は穏やかだった。予想外のことに、ルシフェルは目を瞬かせる。

「あれ、怒らないのか。
 そもそもどうして止めなかったんだ。あいつは君のお気に入りだろう」

 のんびりと間の伸びた答えが返ってくる。暫しの間、ルシフェルは神の言葉に耳を傾けていた。口をつぐみながら、ぽりぽりと頬を掻く。傍らでは未だに疲労困憊しきったイーノックが死んだように眠っている。すうすうと寝息を立てる姿は家を見つけた捨て犬のようだ。
 やがて、ルシフェルは声を立てて笑い始めた。彼の言い草があまりにも彼らしかったからだ。

「君も大概酷い奴だな! あいつが聞いたら何を言うか分からないよ」

 ううん、と青年が寝返りを打つ。足首で絡まっているジーンズがなんとも哀れだったので、大天使は軽く指を鳴らしてやった。ぱちんと歯切れ良い音と共に彼の下半身が隠される。
 声のボリュームを絞りながら天使は続けた。

「いいや、まだ寝てる。しかし盗み見だなんて、あまり良い趣味とは言えないぞ。頼むから目を塞いでいてくれないかな。
 ……うん? ああ。なるほど。
 まあね。人間が酒を飲む気持ちが少しは理解できた気がするよ。だが、穢れに悪酔いするのはこれっきりで十分だ。他の天使が何を言うかは分からないが、少なくとも私はね」

 二、三言、電話の相手は言葉を紡いだ。相変わらず悟り切った含み笑いを帯びていたが、ルシフェルは困ったように眉を下げただけだった。

「……さあ。それはどうだろう。あいつに負担を掛けるのは私の望むところではないんだが」

 ルシフェルはちら、と傍らの書記官を見た。あれほど手酷くされたはずの男は、それでも天使に寄り添うように身を寄せている。安らかに全てを授けているかのごとき表情に、彼はついついほだされてしまった。
 ぐにゃりと唇を苦笑の形に歪めて、大天使は降参だと手を広げた。


「『全ては神のご意思』ってやつだよ」

 密やかに響く神の笑い声に合わせ、ルシフェルはひょいと肩を竦めた。




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