揺れる木漏れ日。さわさわと囁き合う木の葉たち。太陽の位置は既に頂点を過ぎ、陽射しは柔らかだ。イーノックは段々と重くなっていく瞼をなんとか押し上げて、頭上に広がる枝の間からぼんやりと空を仰いだ。鱗雲が青いキャンパスに点々と足跡をつけている。天使が通ったのだ、と彼は思った。あれは天界の聖なる遣いが遺したやんごとない足跡なのだ。そう考えると唇の端に微笑みが浮かんだ。アークエンジェル達の優しい眼差しに見守られているのを感じる。
 ふあ、と青年は大きく欠伸をした。睡魔は足音を消しながら、そろりそろりと近付いてくる。心地の良いふわふわとした感覚が男の体をマシュマロのように包んだ。瞼は鉛にでもなったかのように、再びゆるり落ち始める。

「おい、イーノック」

 唐突に声を掛けられ、イーノックはびくりと身震いをした。頬杖から顎が落ちたのを一瞥して、底意地の悪い大天使はくつくつと笑う。

「口を開けたまま寝るな、みっともない」
「す、すまない」

 ルシフェルはさも愉快げに笑いながら、手元で弄んでいた野花を放り出した。祝福を受けた名もない花は地に触れると、一瞬のうちに倍の数になり咲き乱れる。大天使は息をするように奇跡を起こしながら、全ての矢印を寝惚け眼の男へと向けた。イーノックが手にしっかり掴んだままのチョコレートは、彼の体温でどろどろに溶け始めている。

「まったく。仮にも神の御使いが涎を垂らすんじゃない。

 食欲が満たされた途端、睡眠欲に支配されるとは。つくづく人間は欲深い生き物だな」
 イーノックは羞恥に顔を背けた。自らの弱さを指摘されたようでどうも居心地が悪い。人間という種族であることに引け目はないが、このときばかりは天使の欲求の薄さが羨ましかった。その証拠に天使は眠気を微塵も見せず、いつもと変わらずにやにやと笑っている。
 今日はこれほど素晴らしい野掛け日和なのに、などと考えたらまた欠伸が出た。残念ながら既に頭が回らなくなっているらしい。ルシフェルが何かくどくどと語っているが、その内容さえも鼓膜を素通りしていく。ぼうん、ぼうんと定期的に脳内を鐘のようなものが揺らしていくだけだ。

「イーノック? ……イーノック。
 ははあ、これは本格的に昼寝の時間か」

 青年はどうやら、すまない、と言おうとしたらしい。だがその言葉は口内で押し潰され、むにゃり。曖昧な寝言となって発せられた。ルシフェルは男のうわ言をなんとか掬い上げて、くくっと愉しげに笑った。
 大天使は白い腕をおもむろに持ち上げ男の金髪を撫ぜる。子どもをあやすような、慈愛に満ちた手付き。

「食べたら寝る、か。それ以上でかくなってどうするつもりだ」

 陽射しは降り注いでいる。太陽は二人分の影を草原に映し取って、まるで二人の存在をその場所に記録しているようにも見えた。ルシフェルは自らの影に隠れるようにして、ゆったりとイーノックの傍へ寄り添った。彼が握ったままの手を開いてやり、板チョコレートを剥がしてやる。

 ああまったく、仕方がないな。お前が食べてみたいと言ったから折角持ってきてやったのに。

 赤い舌を蛇のように出して、ルシフェルは男の手の平をべろりと舐めた。チョコレートに汚れたイーノックの手の平が、一筋だけ清められる。少し塩辛い甘みを舌の上で転がして、大天使は声を出さずに笑った。舐めても未だ褐色とは。
 ルシフェルはごろりと転がって、背中を柔らかい草の上に預けた。眠りは訪れるわけもなかったが、この上なく愉快な気分だった。隣ではイーノックが無邪気な顔で転がっている。若僧め、などと愛のある悪態をつきながら、ルシフェルは空を仰いだ。天使の瞳に映るのもまた、人間が仰いだ空と同じ色だった。




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