闇夜の中に、ぼう、と浮かび上がる互い違いの紅白線。閉じ切られたテントの入り口からはうっすらと光が筋となって漏れ出している。賑やかで、しかしどこか物悲しげな音楽が大地を揺らし、それは辺りの闇を一層濃くしているようだった。
 やけに蒸す夜だ。シャツは汗で胸板に貼りつくように思えた。漆黒の男はふうと溜め息をついて、人差し指をシャツの首元へ差し込んだ。開け放たれた襟元から新鮮な空気が入り込む。首筋の後ろが僅かに冷えた気がして、男はもう一度息を吐いた。じゃり、じゃりと地面を踏み締める足が少しだけしっかりする。

 ああ、いっそ雨でも降らないかな。
 こめかみにじんわりと汗を滲ませながら、漆黒の男――ルシフェルは空を見上げた。仰いだ空には月もない。

 歩みを進めるごとに、音楽は響きを強くしていく。ルシフェルは頬へ飛んできた蚊を払った。しかしこのやぶ蚊の多さはなんだ。いくら払おうともまとわりついてくるものだから、さすがにうんざりし始めている。それもこれも、目的のテントが草原の中心に建っているのが原因なのだけれど。
 だが今日の目的地には、それを押してでも向かうだけの価値があるはずだ。少なくともルシフェルはそう期待している。うっすらと唇を吊り上げて、彼は指先で弄んでいたフライヤーを再度広げた。街灯の薄明かりの中ぼんやりと文字が浮かび上がる。

 それは移動サーカスの知らせだった。サーカス団で公演をしながら、気ままに各国を旅しているらしい。文面からすると、どうやらこの国には一週間ほど滞在するようだった。派手な配色のフライヤーは若干目に痛い。だが、惹かれるのも確かだ。
 名も知らぬサーカス団の名前を囁いて、ルシフェルはフライヤーを閉じる。
 目の前には光の漏れる入り口が迫っていた。

「ここか」

 ルシフェルは非日常を求めていた。同じことを繰り返してばかりの日常にはもう飽き飽きしていた。だから暇を見つけてはこうして劇団やサーカス団を巡っていたのだが、最近はそれさえも日常となりつつある。
 彼は刺激を求めていた。自分を沸き立たせるような刺激と、興奮を。

「せいぜい楽しませてくれよ」

 ルシフェルはテントの垂れ幕を手で捲り上げた。




 まず目に飛び込んできたのは、目も眩むほどの閃光。

「うっ」

 思わず彼は視界を覆った。あまりに光が強烈だったので、赤や緑の残像が瞼の裏に焼き付いてしまっている。ちかちかと眩む頭。ルシフェルは手のひらで目頭をよじれるほど擦り、再度おそるおそる瞼を押し上げた。
 線のように細い視界へ、徐々にテント内の光景が映し出される。彼はゆっくりと目を開き、完全なまばたきをひとつした。あれほど強く感じた光も、段階を踏んで慣らせばどうということはない。外の暗闇との落差が激しすぎたせいだろう。

 ルシフェルは辺りを見回した。自分の他に客の姿はない。初日だからもう少し来ているものかと思ったが、ピークはこれからなのだろうか。それとも立地が悪過ぎるせいか? 客席、といってもちゃちなもので、錆びかけたパイプ椅子が並んでいるだけだ。

 まあ、移動サーカスだからな。男は頷く。テントの中央部には円状の台座が敷かれており、どうやらそこがステージとなるようだった。


 ぬう、と。

 唐突に鼻先へ腕が差し出されたので、ルシフェルは軽く仰け反った。

「っと」

 彼は少しだけ不機嫌そうに眉根を寄せた。そのまま、品定めするような視線を鼻先に迫る腕へと向ける。腕は手のひらを上に向けたまま、何かを求めるように指先を波打たせている。
 ルシフェルは長い睫毛を伏せ、腕の持ち主を見据えた。

 腕の持ち主は男だった。銀色とも見紛うほどの見事な白髪で、目元を隠すように金の飾りを嵌めている。飾りの奥にガラス玉のような瞳を認めて、ルシフェルは奇妙な気分を覚えた。

 なんだ、この男は。

 もう一度、急かすように指先が波打つ。何かを差し出せ、と言っているような。

「……ああ」

 ルシフェルは納得した。白髪の男の首に、木の板が鎖で下がっているのを見つけたからだ。

『にゅうじょうりょう は こちら で どうぞ』

 鉄の鎖は太い。さぞかし重いのだろう、男の首に食い込んでしまっている。

「入場料、入場料ね」

 どことなく安堵したような心持ちになって、ルシフェルは胸を撫で下ろした。そのままジーンズの尻ポケットへスマートに手を伸ばす。長財布を取り出すためだ。

「まったく驚いたな。受付けなら受付けらしく、ちょっとは愛想良く振舞ったらどうだい。そう無言で手を差し出されても何かと思うじゃないか。……ほら」

 小銭を手のひらへ乗せてやる。褐色の腕は蛇のようにするすると引き、空き缶でできた銭入れに中身を落とした。チャリン。金属音が空き缶の中で反響する。白髪の男は僅かに頭を下げたが、やはり言葉は発さなかった。
 口がきけないのだろうか。ルシフェルは首を傾げる。
 金の飾りの奥の瞳はやけに澄んでいて、身体に似合わず小動物のような無垢さだ。

 白髪の男は入場料を受け取ると、返す手で何かを差し出した。ピンク色の紙切れだ。紙の上には落書きのような文字で『にゅうじょうけん』と書き殴ってある。乱雑な字。作る際に、おそらく指で一枚一枚ちぎったのだろう。紙の端はぼろぼろに欠けている。
 ルシフェルは肩をすくめた。子どもの手習いより酷い出来だ。

「結構だよ」
 どうしても受け取らなければ入れないと言うなら貰うけれど。

 彼がそう付け加えると、白髪の男は哀しそうに口端を下げた。『にゅうじょうけん』を差し出した手は、そのまま名残惜しげに下げられる。

「中は自由席かな?」

 返事はなかった。ルシフェルはそれを肯定の意と受け取り、どうも、と片眉を吊り上げる。そして長い足をコンパスのように使いながら、さっさと客席へ向かい始めた。
 白髪の男はうつむいたまま、受け取られなかった入場券をじっと見つめている。




 適当な席を見つくろい、ルシフェルは腰を下ろした。パイプ椅子が軋む音がする。
 陣取ったのは真正面、最前列から数えて二列目の位置だ。他に客がいないのだから最前列でも良いかと思ったが、それはそれで気が引ける。最前列でかぶりついているのは年端も行かない子どもだけで十分なのだ。足を投げ出してルシフェルは腕を組む。

 そういえば、時計を家に忘れてしまった。彼はふと自らの失敗を思い出した。開演の時間まではあとどれくらいあるのだろう。

 と、考えていた矢先。ガシャン! 鳴ったのは照明が落ちる派手な音。ルシフェルは驚きのあまり椅子から滑り落ちそうになってしまった。あっと言う間にテント内は夜の闇に支配される。

《レディース・アンド・ジェントルマン!》

 暗い空間を切り裂くような声がした。叫ぶように、謳うように、声はテント内を駆け抜ける。

《ようこそ、我らのサーカスへ! 国を越え、種族を越え、幾筋もの流れを越えて、今宵はこの地を賑々しくしてみせましょう。寄ってらっしゃい、見てらっしゃい。他じゃ見られぬ出し物が、あなたを虜にすること請け合い!》

 パッ、と照明が再び点灯した。壇上には揺らめく影。ルシフェルの方を真っ直ぐに見つめながら、金髪の痩せ細った男が大袈裟に礼をする。着込んだ燕尾服がひらりと翻った。

「いらっしゃいませお客様。俺はここの団長で、サリエルと申します」

 ルシフェルは狐につままれたような表情を浮かべた。暫くの間そのまま口を歪めていたが、やがておそるおそる周囲を見回してみる。やはり、何度見ても、自分以外に客の姿はない。
 たったひとりの客のためにシルクハットを取る団長の姿は少々滑稽に見えた。お客様、と呼ばれた男は気まずそうに頬を掻く。まさか自分ひとりのためだけにサーカスが開演されることになろうとは、一体誰が予想しただろう。

「――あぁと」

 間の抜けた声がこぼれる。一対一なのだから、返事くらいはするべきなのだろうか?

「どうも」

 仕方なさそうに挨拶をしたルシフェルへ、サリエルはにんまりと会釈を返した。くるくると回っていたシルクハットが再び頭へ収まる。水気のない金髪が少しだけひしゃげた。
 団長は血色の悪そうな顔を爛々と光らせる。

「お客様、当サーカスは初めてで?」
「……ああ。驚いたよ。まさかこれほど手厚い歓迎を受けるとは。
それとも、今日はどこかのVIPの招待日か何かだったのかな。残念ながら、私はただの一般客でね」
「いいえ滅相もございません。我がサーカスへお越し下さった、それだけで皆さまVIPのお客様です」

 赤い舌がちろりとのぞく。乾いた唇を湿らせ、舌先はまた口中へ逃げ帰る。


「どうぞ最後までごゆっくり。『ルシフェル』様」


 ルシフェルは衝撃に喉を詰まらせる。さあっと背筋を氷が滑り降りたようだった。

「何故、私の名を」
《さて、最初は誰から見せようか!》

 黒ステッキを振り回して、サリエルがマイク越しに叫ぶ。おどけた足元。テントの天井はより高くなり、舞台の奥は一層騒がしくなる。照明はちらつき、赤や青のライトが光る。

《『怪物使い』? 『猛獣調教師』? それとも『カラクリ師』がいいか?
 たったひとりのお客様を射止める自信のある団員はどこだ!?》

 くるり、くるり。サリエルは踊るように壇上で回る。楽しそうに腕を広げながら、ふらふらとステージ上を歩き回っている。半ば茫然としながらルシフェルはその光景を見つめていた。

 何故、私の名前を知っている。

 受付けで書いた覚えはない。チラシだって街中でたまたま受け取ったものだ。なのに何故、あの団長は私の名前を知っているんだ。
 サリエルと視線が交差する。団長はにんまりとチェシャ猫のごとく笑うと、トントン、と自らの胸の辺りを人差し指で突いて見せた。

「失礼、携帯のストラップが見えたものでね」

 ルシフェルは示されるがまま、自分の携帯を胸ポケットから取り出した。
 そうして、ようやく腑に落ちた。確かにストラップには彼の名前が入っていた。数年前に気まぐれで作った、ドッグタグを模したストラップだ。普段から何気なしに付けているものだから、つい自分の名前だという認識が薄れていたのだ。
 確かにこれを見たのなら、私の名前を知っていてもおかしくはない。
 暴れていた鼓動が緩やかに治まり始める。

《ごゆっくり、たったひとりのお客様!》

 団長はそのままふらりと垂れ布の向こうへ消えてしまった。





 サーカスは幕を上げた。
 しかし肝心の内容はといえばお粗末極まりないものだった。

 『怪物使い』は幼い女の子だったが、奇形のよくわからない生き物と戯れるだけで、特に芸らしきものをさせる様子はなかった。確かにこの『怪物』と呼ばれていた生き物だけは珍しかったが、ルシフェルはなんとなく好きになれなかった。ぽっかりと開いたままの口が生理的に受け付けなかったのだ。

 『猛獣調教師』も酷いものだった。とても満足に立ち回れるとも思えぬ老婆が、ニ匹の大豚を追い回しているだけだ。豚はあちこち好きなように逃げるので、ルシフェルは老婆がいつか腰の骨を折ってしまわないか始終気掛かりだった。やはり楽しめるはずもなく、彼は大きくあくびをする。投げ出した足の間を豚の片割れが駆けていった。

 それでも、『カラクリ師』に比べれば幾段かマトモだったと言えるだろう。天才カラクリ師を自称する老爺が、壇上でひたすら自らの発明を自慢する。たったそれだけのステージには思わずルシフェルも頭を抱えてしまった。発明といえば聞こえはいいが、結局はバイクの改造や電飾程度だ。元々機械系に興味が薄い彼にとっては、一体何を楽しめばいいのだろう。

 最初のうちは苛立ちもあったが、もはやルシフェルは諦めの境地にあった。名も知らぬ移動サーカスに期待を寄せた自分が愚かだったのだ。移動し続けているということは、その地に根付けないということだ。確かにこのクオリティーの舞台では、特定の地域や国に受け入れられることは難しいだろう。
 まあ、二度と来ることはないだろう。彼は足を組み替えた。




《お楽しみ頂いていますか、お客様!》

 ルシフェルは肩をすくめた。もはや返事をする気すら起きはしない。
 サリエルは相変わらずくるくると回っている。

《『怪物使い』に『猛獣調教師』、そして天才『カラクリ師』!
 まさに当サーカスでしか見られないラインナップ。きっとお楽しみ頂けていると自負しております! 一瞬足りとも目を離せない、あなたを惹き込む魅惑のステージ!》

 小さく鼻で嘲笑う。舞台上の団長は当然気付かない。楽しげに、不自由することなく、腕を広げて舞い踊っている。

 ルシフェルは溜め息をついた。できれば今すぐにでも立ち上がり、この場から立ち去ってしまいたい。これまでの舞台を省みるに、この先も期待はできないだろう。
 サーカスごときに非日常を求めた私が悪かったのだ。
 溜め息を聞きつけたサリエルが踊る足をぴたりと止める。小首をきょとんと傾げながら、彼はたったひとりの客へ視線を投げた。問い掛けるような、不思議そうな瞳。

「おや『ルシフェル』様。これまでのステージでは、少々ご不満のご様子」

 返答の代わりにルシフェルは瞼を閉じる。

「……なるほど。これは失礼を。それではここで、俺のとっておきを出しましょう。
 これならばきっと『ルシフェル』様もお気に召すはず」

 今更そう告げられたところで胸が高まるべくもない。好きにやるがいいさ。ルシフェルは手をひらりと振った。とにかく早いところ全ての出し物が終わってしまえばいい。そうしたら、帰り道で酒か何か愉快なものを買って帰ろう。それを食らって寝てしまえば、入場料の記憶など泡となって消えるさ。
 ルシフェルのゴーサインを受け、サリエルは奇妙な笑いを浮かべた。

《では、我らの新米、哀しい『道化師(ピエロ)』をご紹介。――イーノック! 出て来い!》

 紫の垂れ幕の向こうから、陽炎のように人影が現れた。




 呼び声に応え現れたのは、道化師と呼ぶにはいささか図体の大きすぎる男だった。確かにピエロの服に身を包んではいるが、垣間見える褐色の身体は極限まで鍛え上げられている。
 これほどまでにむくつけきピエロを、ルシフェルは見たことがない。あまりのギャップに彼は思わず笑い出した。ピエロの服は少々サイズが小さいようで、今にもあちこち裂け始めそうだ。

《哀しき『道化師』は喋りませんが、お客様へ精一杯のご挨拶》

 団長のナレーションと共に、イーノックという名の道化師はおどけた一礼。ペイントさえ施されていない顔には、それでもピエロらしく表情が一切浮かんでいなかった。
 静かな男だ、とルシフェルは思う。そして同時に、食い入るように道化師を見つめている自分がいた。

《それではどうぞ、新米『道化師』のパントマイムをお楽しみ下さい》

 サリエルはそのまま姿を消す。壇上にはイーノックがひとり、強すぎる照明に晒されている。


 ゆら、と。


 イーノックが静かに動き出した。

 筋肉に包まれている身体から繰り出されているとは思えない、繊細で流れるような動き。美しい旋律に合わせて道化師は舞台を動きまわる。それは力強く舞うようで、壊れかけたぜんまい仕掛けのようで――。
 気がつけば、ルシフェルはすっかりこの道化師に魅入られてしまっていた。壇上の男が足を踏み出すたび、ルシフェルの視線も左右に動く。一時たりとも目を離すことなどできない。離す気にもなれなかった。視線は貼り付いたように道化師を追っている。

 イーノック、イーノックか。
 ルシフェルは乾き切った唇で、道化師の名前をそっと紡いだ。

 その瞬間だった。

「!」

 美しく舞っていた道化師は客を振り返り、そして、間違いなくルシフェルへ微笑んだのだった。哀しげに、それでいて狂おしいほどの熱と共に。




 それ以来、ルシフェルは一日も欠かすことなく移動サーカスへと足を運んだ。蚊を追い払い、暗闇の草原を抜け、無言の白髪男へ料金を支払い、自分以外に誰も客のいないサーカスを飽きることなく観覧し続けた。それは他ならぬ『道化師』に逢うだけのためだった。
 もはや彼にとって、他の客の有無など取るに足らない事象に過ぎなかった。前から二列目の席に陣取りながら、彼は『イーノック』の出番を待ち続けるのだ。その為になら、奇妙なだけの『怪物使い』も、出来の悪い『猛獣調教師』も、凡庸な『カラクリ師』の出番にさえ耐えられた。
 いざイーノックの出番が来れば、ルシフェルは一瞬たりとて目を離さない。全ての瞬間を捉えようとしてはみるのだが、瞬きがあってはそれさえできずただ口惜しい思いをした。道化師はしなやかな、それでいて力強い動きを魅せる。ルシフェルの心は揺さぶられるばかりだった。

 何故これほどまでにあの男に惹かれるのだろう。自らに問うてはみるのだが、今の彼にとってはそれさえ自明に思えてならなかった。惹かれてしまうからこそ、惹かれるのだ。理由などそれだけで十分ではないか。

「イーノック」

 唇の先で霧散してしまうほどのか細さで、彼は道化師の名を低く囁く。
 その度にピエロはたったひとりの客を見て、うっすらと微笑むのだ。哀しげに、引き込むように。

 ルシフェルにとって、今やイーノックこそが非日常だった。



 いつしか彼は、イーノックと話をしてみたい、と思うようになっていた。『道化師』ではない、役割から降りたイーノックと接してみたい。それは彼にとって自然な欲求だった。

 だが男は同時に愕然とした。
 移動サーカスはこの国に、たった一週間しか滞在しないのだ。既に日は過ぎ、残された時間は僅かしかない。決められた日が来れば彼らは旅立ってしまう。再び自分は束の間の非日常を失い、同じ日常を繰り返す日々に戻るだけになるだろう。

 退屈は恐ろしかった。ルシフェルは自らの日常に飽き果てていたし、失望さえしていたのだ。
 彼はあの男の正体が知りたかった。そして、できることならば自分をこの退屈の底なし沼から救い上げて欲しかった。

「……ふむ」

 ルシフェルは自室の椅子から、重い腰を上げた。
 彼はイーノックという人間を知りたかった。もっと深く、本質的な彼という存在を。




 夜も更け切り、草木も眠りに着いた頃。
 あれほど賑やかだったサーカスのテントからも最後の明かりが消える。暗い草原は完全に闇へと沈黙した。小煩い蚊さえ飛ばず、辺りにはしんしんと静けさだけが漂っている。

 黒いシャツを着込んだルシフェルは、影のようにテントの裏へと滑り込んだ。様々な機材がごちゃごちゃに積み上げられたテント裏には、幸い団員の姿は見えない。そのことに暫しの安堵を覚えた。
 ルシフェルは遂に、奇妙なサーカス団へ忍び込むことができたのだ。

「イーノック」

 彼は目当ての男の名前を紡ぐ。そよ風のような音量に過ぎなかったが、ルシフェルは確信していた。あの男なら、自分に笑いかけたあの男であれば、私の呼び声に気付かないはずがない。

「イーノック、いるんだろう」

 前も後ろも分からぬ闇の中、彼は手探りで歩みを進めた。蒸すような暑さは気にならない。あの道化師はどこにいる。あの、哀しい瞳をした静かな男は。

「イーノッ……」

 ふ、と。

 自分の指先を、何者かに掴まれた。ルシフェルは驚きのあまり手を引こうと試みたが、あまりに強く握られているためそれも叶わない。ぐっと引き寄せるように掴まれて、ルシフェルは思わず前方向へつんのめった。
 彼が目にしたのは無骨な手だ。骨張って傷だらけの、褐色の手だ。
 ルシフェルは何者かが自分を抱き寄せる腕を感じた。筋肉でがっちりと保護された腕と、それからささくれた指先。

「……イーノック?」

 名前を呼ぶと、蒼いふたつの瞳が闇夜に浮かび上がる。

 ルシフェルは今や道化師の腕の中にいた。

 イーノックはペイントの施されていない顔を、真っ直ぐにルシフェルの方へ向けている。どこまでも真摯な瞳。だが、何故かその蒼い目は哀しそうに翳っているのだった。ざわ、と心が騒ぐ。熱っぽい、狂おしそうな視線。自分を捕らえて離さない眼光だ。
 ルシフェルは言葉を失った。あれほど多くの言葉を用意してきたというのに、いざイーノックを前にすると、それらは全て消え失せてしまった。自分に回された力強い腕と、不安そうに翳る目線に全てを奪われてしまう。

「イーノック」

 馬鹿の一つ覚えのように、彼は道化師の名前を呼んだ。道化師は舞台上と同じように表情を失ったまま、ただルシフェルを見据えている。確かめるように、試すように、見つめ続けているだけだ。

「話を、したいんだ。イーノック」

 乾いた舌が上顎に貼りつく。普段の多弁な彼からすれば有り得ないことだった。それをなんとか引き剥がしながら、黒い男は言葉を紡ぐ。鼻先で揺れる金の髪。

「私は、お前と、もっと話が――」




 そこで、イーノックは笑った。



 壇上で見せていたような憂美な微笑ではない。それは太陽のように、晴れ晴れとした笑顔だった。今にも輝き出さんばかりの満面の笑みをたたえ、イーノックは笑ったのだ。

「ルシフェル」

 光り輝く男は言葉を紡いだ。初めて発する言葉だった。ルシフェルは驚愕の表情を浮かべながら、紡がれた自らの名前を聞いた。
 不思議と違和感はない。それどころか、ずっと昔からそう呼ばれていた気さえする。なんと温かくて心地良いのだろう。

「ルシフェル……」

 イーノックは愛おしげに腕の中の男を呼ぶ。そのまま道化師はそうっと身を屈めると、開いたままのルシフェルの唇へ、自らの唇を押し当てたのだった。

 ふたりの影が重なる。熱を帯びた唇がルシフェルを支配していく。
 ルシフェルはぼんやりと瞼を伏せた。





 目を開くと、そこは地上界だった。

 ルシフェルは肺に溜まっていた水を吐き出した。気管にも入ったのだろう。酷くむせ返る。アストラル体で模した人間の身体が重くてたまらなかった。視界がぼやける。苦しさのあまり涙が滲んだのだろう。
 ひと通り水を吐き出すと、天使はふうと息をついた。まだ本調子ではないが、それでも先程よりは幾分か良いだろう。涙で濁った目を手のひらで擦り、視界を取り戻す。

 見れば鼻先にまでイーノックの情けない顔が迫っていた。泣き腫らしたのだろう、目の周りが赤く膨らんでいる。もっとも元より褐色の肌では、そう目立つべくもないが。

「……暑苦しいぞ」

 迫るイーノックの身体を、皮肉と共に大天使が押し返す。
 跳ね除けられた男はこれ以上ないほどの極上の泣き笑いを浮かべた。

「ルシフェル!」
「酷い顔だな。私が死ぬとでも思ったのか。天使は死なないよ。死なんて概念は人の子にしかないからね。……げほ」

 最後の水を苦々しく吐き出す。そして漆黒の大天使は、さも忌々しげに空を見上げた。
 ルシフェルは今もこちらを監視しているだろう主をうんざりと睨みつけた。

「まったく。サポートの片手間、少しばかり時間軸を散歩しただけじゃないか。
 よもやその程度でこうも仕事熱心な大天使へ天罰を下すとは……君も案外心が狭いぞ」
「ルシフェル」

 咎めるようにイーノックが制する。大天使はもう一度だけ大袈裟に溜め息をついてみせた。

 だが、そう気分は悪くない。自分のためにこの人間が顔を泣き腫らしたというのも愉快だった。天使は退屈を憎んでいた。その分、この愚直で哀れな人間を気に入っていたのだ。
 ルシフェルは手をひらりと振った。

「まったく、妙な夢を見てしまったよ。驚いたな。天使も夢を見るのか。
 お前は相変わらずの仏頂面だったよ。しかし、どこで人工呼吸なんか習ったんだ」
「人工呼吸?」
「これのことだよ」

 ルシフェルは気怠い身体を起こして、イーノックの唇へ口付けを押し付けた。




▲戻る