崩れかけた塀の残骸に天使が腰掛けている。足先をぶらぶらと不安定に揺らしながら、大天使は赤い目で空を見た。空には未だに黒い靄が渦のように広がっている。今は朝なのだろうか、夜なのだろうか。それすらも見失うほどに、世界は暗くどんよりと落ち込んでいた。

 天使はまだ足をぶらつかせている。その姿は世界の終焉など気に留める様子もない。
 けれど、そのうちこの闇も晴れるのだろう。風が吹き、雲を散らし、夜を割るように陽が差し込むはずだ。天使にはそれが分かっていた。なぜなら彼は、彼らは、使命をようやく全うしたのだから。今や偽りの発展は終わり、新しい夜明けが目の前にまで迫っている。


 世界を洪水の危機から救った。その事実に対しては、とりたてて感傷めいたものはない。だがこの長い旅路を通して、彼自身は何かを得ることとなった。半ば無理矢理に得させられたといってもいい。
 その何かが良いものなのかどうかは、まだ彼自身では判断がつけられないのだが。

「ルシフェル、何をしているんだ」

 急に足元から呼び声を聞いたので、大天使はちらと視線をそちらへ投げた。切り立った塀の下からは眉根を寄せた男が、こちらを怪訝そうに見上げている。駆けてきたのだろう、息があがっている。揺れる肩と蒸気する頬。
 彼の視線がやけに咎めてくるようだったので、ルシフェルは空笑いをあげた。

「何をしているかって? この通りだよ。空を見ているのさ」
「私を置いて行かないでくれ」

 反射的に押し付けられた言葉に眉をひそめる。

「心外だなイーノック。私が君を置いていったことなんて、ただの一度だってないはずだろう。君が幾度となく失敗を続けたときも、ほら、冥界の穢れを落としているときだって。よもや忘れたとは言わせないぞ。あれは待ちくたびれた」

 イーノックと呼ばれた青年は複雑そうに表情を歪める。ルシフェルは相変わらず塀の上から降りてくる様子はない。ならば自分も登ってやろう、と思い立ったは良いものの、周りには足場となり得る箇所すら見当たらないのだった。
 仕方なしにイーノックは溜め息をひとつ。

「私はあなたが消えてしまったかと」

 ルシフェルはくすくす笑ってみせる。

「私が? どうして」
「あなたには」

 イーノックはぐっと声を詰まらせる。喉仏が苦しそうに上がった。こんな言葉を発しても良いのだろうか、という戸惑いが手に取るように伝わってくる。大天使はまだ足をぶらぶら揺らしている。視界を細長い脚がちらちら掠めるので、彼は急かされた気分になった。

「あなたには、翼があるから。
 私の手が届かない場所へ飛んでいってしまいそうで」

 躊躇いの後、ようやく彼はそう紡いだ。浅ましい望みだとは分かっている。だが、もう独りにはなりたくなかった。

 ルシフェルはきょとんと目を瞬かせる。

「何をくだらないことを言っているんだ」


 そして、ぱちん、と指を鳴らす。いつものように、いつも通りに。




「翼なら君にもあるじゃないか」



 旋風が巻き起こる。


 大鷲が飛び立つ前触れのように、イーノックの背中から対の翼が広がった。純白で堂々とした両翼はそよ風と共に光の粒子を振り撒いていく。
 イーノックは驚愕した。我が身に神の御業が施されたことなど知る由もなく、ただ呆然と立ち尽くしていた。塀の下で棒立ちになっている姿はより一層小さく見える。翼はこの上なく上等な創りだったので、彼の惨めさを更に引き立てた。

 ルシフェルはげらげらと腹を抱えた。かの青年が、まるで自らの僥倖に気づかずにいたからだ。

 大天使は彼に倣って翼を広げた。シャツを模っていたアストラル体が変化し、刹那のうちに三面六対の大翼となる。

「『置いていくな』なんて、二度と馬鹿げたことを口にするなよ。イーノック」

 いや、メタトロンか。
 彼は咄嗟に言い掛けたが、思い直して口をつぐむ。まあいい。呼び名など天使にとっては取るに足らないことだった。

 ルシフェルは崩れかけた塀の上に立ち上がる。雲の切れ間から朝陽が差し込み始めた。切り裂くような光が地上へ降り注ぐ。

「天使は誰のことも待ったりしないんだ。特に私はね。それでも君相手にはこの旅路中、既に未来永劫分待ってやったはずだよ。
 だから」

 黒き大天使は聖なる太陽を背負った。

「せいぜい追いかけてくるんだな。その翼が単なるお飾りじゃないのなら」

 そして彼はあっという間に、陽炎が掻き消えるがごとく霧散してしまった。



 残されたイーノックはぽかんと口を開く。顎は落ちたまま暫く戻らなかった。

 だが、暫しの間の後に青年は笑い出す。くすくすと、次第に可笑しげな調子で。
 そして。

「少しは休ませてくれ」

 皮肉っぽくそう呟くと、彼は生まれたての両翼を大きく羽ばたかせた。力加減を知らない羽ばたきが辺りを一閃する。突風が周囲の草木を吹き飛ばした。木の葉が舞い散り降り注ぐ。



 そうして草木のざわめきが収まった後には、既にイーノックの姿はなかった。
 雲の晴れた大空ではヒョロロロ、と一羽の鳶が鳴いている。




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