空を見上げる。樹々の枝葉に囲まれた闇空は星の形をしていた。鼻先にちらりと冷たいものが触れたので、イーノックは驚いて指をやる。しゃり、と解けるように淡いものが鼻のてっぺんをくすぐり、やがては水の雫となった。

 青年は年甲斐もなく嬉しくなって、ぱあっと表情を輝かせる。辺りに陽の光が満ちたような笑顔だ。
 麻でできたローブの袖で顔をぐいと拭う。荒い生地に擦られて鼻先はすぐ赤くなった。芯まで伝わる寒さにすんと鼻を啜りながら、イーノックは傍らの天使を見る。

「ルシフェル、『雪』だ」
「見れば分かるさ」

 案内役の天使はうんざりといったように足を組み替えながら、手元の携帯をせわしなく弄ぶ。実際、大天使はこの天候に辟易していた。雨ならまだしも、雪とはね。まったく面倒なことだ。足元はぬかるみ、泥に足を取られ、剥き出しの肌はきんきん冷える。これではろくに戦闘もままならない。仕方なくこの場から動けずにいる。待機はイーノックを思えばこその判断ではあったが、地上に満ちる穢れのすえたような臭いはいやにルシフェルを苛々させた。
 手をゆるりと広げて、ルシフェルは眉頭をぐっと寄せる。

「穢れの影響で最近は天候すらこの調子だよ。
 昨日は雨、今日は雪だ。明日は何が降るだろうな? 槍でも降ってくるなら面白いんだが」

 イーノックは困ったように唇をへの字に曲げた。

「槍は困る。防ぐ手段がない」
「傘をやるよ」

 ふあ、と天使は欠伸をひとつ。



 ルシフェルはこんな調子だったが、イーノックは内心浮かれていた。なんといっても、雪だ。白い、ふわふわとして、ちらちらとしたものが舞っている。それだけで気分は落ち着かなくなるものだ。空中にひらり、ひらり。白い花弁は彼の肌に触れると、熱を奪って消えていく。褐色の手を右、左とうろうろさせながらイーノックは雪を追った。
 ちら、と天使が目を上げる。大の男が雪と戯れている。妙に可笑しくなった彼は持っていた本を胸元に仕舞い込むと、くつくつと笑ってみせた。

「君はそれが好きだなあ」
「『雪』は綺麗だ。初めて見た。冷たいし、触ると気持ちがいい」
「成る程、幼子にも分かりやすい。満点解答だな」

 彼の口振りは皮肉っぽかったが、視線は温かみに満ちていた。ルシフェルはすいと重力もなく立ち上がると、そうっと白い指先を伸ばす。イーノックの金の髪には幾つも雪が絡まっている。そのひとつを摘まみ上げ、ふうと息で吹き飛ばした。天使には体温が無い。雪は溶けることもなく再びひらひら舞い始める。

 ありがとう、と書記官は笑う。どう致しまして、とルシフェルが微笑んだ。
 イーノックの手は寒さに赤らんでいる。これはひび割れになるだろうな、と天使は諦観に満ちた溜め息を付いた。後で香油を塗ってやろう。隅々まで塗り込めば、少しはマシになるだろう。

「しかし、本当に君は雪を知らないんだな」
「私の故郷は温かかったから」

 つんと赤い鼻先が突つかれる。

「いいや、そういう意味じゃない。雪の楽しみ方を知らない、ってことさ」

 にんまりとガーネット色の瞳が細められる。楽しんでいるようだった。

 ルシフェルはそうっとしゃがみ込む。足元の雪を一掬いすると、書記官の目の前でぎゅうと押し固めてみせた。淡い結晶の積み重ねは小さい雪玉と姿を変えて、大天使の手の平の上でころんと丸まっている。
 何故だかそれが素晴らしいもののように思えて、イーノックの胸は高鳴る一方だった。小さい雪玉。
 男はもうひとつ作ってみせて、小さな片方を上に乗せる。小指で二つ穴を開けてやれば、

「どうだい」
「ネフィリムを模したのか!」

 反射的にイーノックが叫んだので、ルシフェルは思わず雪だるまを取り落としそうになってしまった。
 よろよろと起き上がる。窪んだ眼をした小さな雪だるまがむっとしたように書記官を見つめている。

「ネフィリム、ネフィリムね。君にはそう見えるんだな」
「違うのか」
「これは雪だるまだ、ネフィリムじゃない。簡易雪像と言ったところかな」
「ふうん」

 投げるように手渡された雪だるまをなんとか受け止めて、褐色の青年は睨めっこを始めた。小指でつけられた窪みの位置は少々左右がずれていて、首を傾げたような顔をしている。歪な出来だ。しかし、それが味にも感じる。何より、誇り高き大天使がこれを造ったという事実が彼には愉快で堪らなかった。
 ルシフェルはといえば、自分の造り出した雪だるまに割合自信を持っていた様子だったで、書記官の一言に少々打ちのめされていた。褐色の両手に抱かれた自信作を見つめながら、ぶつぶつと口内で文句を食んでいる。

「意外と可愛いと思うんだがなあ」

 ははは、と声を立てて書記官が笑った。
 そうしてから自分もこれ以上の作品を生み出すべく、足元の雪を掬い始めた。




▲戻る