「蜜柑、もうひとつ」
「駄目だ。
 いくらなんでも食い過ぎだぞ、イーノック。手が黄色くなっても知らないからな」

 イーノックは小さく苦笑して、ゆるゆると拳を開いてルシフェルへ差し出した。褐色の肌が更なる黄色味を帯びている。

「……ああ、手遅れだ、と言いたいんだな」

 ひらひらと手を振るあどけない顔をした青年に、金髪の大理石像は籠の蜜柑をひとつ弾いてやる。五つ目の蜜柑を嬉々として剥き始めるイーノック。その光景を見ながら、彼は頬杖をついた。鼻で僅かに息を抜く。

「何故手が黄色くなるか知ってるかい」
「びたみんだな」
「残念、βクリプトキサンチンのせいさ」

 話へ一向に興味を示さないイーノックを見かね、ルシフェルはむっと唇を尖らせた。炬燵の下の足をちょいと小突く。それでも尚平然としている彼の手慣れた様子といったら。
 大天使は大袈裟に溜め息をついてみせ、天板へと突っ伏した。跳ね返る吐息で鼻先が温められる。

「人間の適応能力を恨むよ」
「何のことだ」
「初めて炬燵を持ち込んだときの君の喜びよう。あれが二度と見られないのが酷く惜しい。今じゃ、何食わぬ顔でぬくぬくと温まっているじゃないか」
「素晴らしい叡智だと思ってるぞ」
「未来の子孫に礼を言うんだな」

 んあ、とルシフェルが口を開く。男はそれを横目でちらりと見やる。
 そしてぽっかりと開かれた口内へ、さも当然といった具合に蜜柑が一片押し込まれた。ゆるゆると咀嚼しながら、天使はもう一言続ける。

「酸っぱいな、これ」
「適応能力だ」

 嬉しそうに青年が放った言葉を聞き逃すはずもない。上目に視線を投げると、次の一片を差し出しながらイーノックが待っている。

「君とこうして過ごせるのも、適応能力のお陰だ」

 赤目の天使はぽかんと呆気に取られた。が、すぐにくくっと押し殺した笑い。
 噛みつくように指先の蜜柑を奪い取り、挑戦的に青年を見返す。

「成る程、それは愉快だ」

 イーノックは同意を求めるように口角を引き上げた。




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