陽が地平線の彼方へと消える少し前、私達は天の世界の最も端にある、何も存在しえぬ白の広場へと辿り着いた。地上に最も近い、まさしく天と地の境目。そこに、今は神の御手を模った建造物が立ち塞がっていた。
 私は手元の資料を指でめくりながら、巨大な掌の上へ背負っていた荷を下ろした。

「堕天した天使は全部で七名だ。
 お前は彼らを地上の肉体から引き剥がし、ここへ連れてこい」

 イーノックは口角を下げた。私はにやついて彼の背中を叩く。

「なんだ、気が進まないのか」
「そんな訳では」
「さすがに人間的な感覚だな。
 大方、アザゼル達を殺すのは気が引ける、とでも思っているんじゃないか?」

 イーノックは薄く笑って、君には隠し事ができないな、と呟いた。君が特別分かりやすいだけだと言ってやりたかったが、面白いので黙っておくことにする。
 私は肩を竦めて、くるりと背を向ける。ここは少し講釈を垂れてやることにしよう。

「いいか?
 堕ちた身であるとはいえ、元が天使である以上、地上の身体を受肉すれば当然負担が掛かる。
 本来ならば動けぬ程の痛みだろう。その痛みから解放してやると思えばいい」

 彼は僅かに唸ってぽりぽりと頬を掻いた。肉の身体についての認識が我々と彼らとでは違うのだから、そういった反応も無理はないだろう。男は暫しの間落ち着かなさそうに軸足を踏み替えていたが、やがてこくりと首肯する。

「さ、持ち物の確認をしよう。
 君が天界へ何も持ち込めなかったように、地上へ持って行けるものは少ない」

 イーノックは背負っていた荷を下ろし、麻の袋から嵩張る装備を取り出した。楔(くさび)帷子(かたびら)、金属で出来た胸当て、無意味な飾りのついた兜。私は目を丸くしてそれらを眺めた。ひしゃげた鉄の盾が出てきたときには、私の口からは既に溜め息しか出なくなっていた。彼は無頓着に布でそれらを磨いている。
 私は肘当てにあたる部分を摘まみ上げて、軽く爪で弾いた。かつんと薄い音がした。
 馬鹿にした調子を隠そうともせず、私は愚かな男の名前を呼んだ。

「イーノック」
「どうした」
「これはどうした。誰に貰った?」
「カマエル様から頂いたのだ。
 『お前の旅路に光が満ちるように』と祝福までして下さった」

 聞き覚えのある大天使の名前が飛び出したので、私は肝が冷えた。

 戦の天使、破壊の天使。おまけにとびっきりの天使第一主義者。
 そんなカマエルからの贈り物とは、深く考えなくとも、ろくなものではないだろう。私から言わせてみれば、何故そんなものを受け取ったのかさえ理解が及ばないね。


 磨き布で剣の錆を擦る男を冷たい目で諌める。白銀の剣はさすがに見た目だけはしっかりしている。
 私の冷ややかな視線に気付いたのか、イーノックはこちらを向いて無邪気に首を捻る。

「? どうした、眉をそんなに吊り上げて」
「君は賢いのか、それとも賢過ぎるのか」

 渾身の皮肉もどうやら伝わらなかったらしい。私の言葉をさらりと受け流し、イーノックは不慣れな手付きで足鎧を嵌めた。鎧から放たれる無機質な冷たさは驚くほど彼に似つかわしくなかった。
 仕方ない。私は忠告の段階をひとつ上げることにした。その装備を置け、とより直接的な表現を口に出そうとして――その言葉が紡げないことが分かった。



 結果、私は無様に口をぱくつかせた。 


 イーノックは鎖帷子を巻いている。私の失語状態には気付いていないようだった。
 どうしたことだ、と考えを巡らせているうち、ある答えに辿りついた。


 『選択の力』か。


 思わぬ障害に舌を打つ。この男が自らで既に決定した事象に関しては口が出せないのか。まったく不便な縛りだ。

 と、少々目を離しているうちに準備が整ったらしい。がちゃがちゃとやかましい鎧に身を包んだ男がすっくと立ち上がる。お世辞にも似合っているとは言えない姿に哀れささえこみ上げてくる。
 しかし、もう私にはどうすることもできない。前髪をかき上げ、つまらなそうに尋ねる。最終忠告と言ってもいいだろう。

「そんな装備で大丈夫か?」

 こちら側の心境を知ってか知らずか、彼は呑気に肩当ての嵌め込み具合を直している。

「大丈夫だ、問題ない」

 ああそうか、ならば勝手にするがいい。
 結果が嫌と言うほど見えている。それでもその結果に直接手が下せないのならば、あとは盤上を見守るしかないだろう。

 これはサポートに骨が折れそうだ、と私は苦く笑った。しかし心は期待に踊っていた。どうせ永い生を持てあましていたのだ。この人間が何度やり直せば正しい道を選ぶのか、それを眺めるゲームもまた一興じゃないか。
 さて、この人間はどう世界を救おうというのだろう。神さえも見放した世界を、一介の人間が?

「さあ、お手並み拝見といこう」

 囁きは風に流されて消えて行った。イーノックは玩具を買い与えられた子どものように、毒で出来た贈り物を一心不乱に磨いていた。




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