サリエルはかさつく唇をちろりと舐める。
小さな欠片だった頃から、物を大切に扱う方の性質だった。他の誰よりも物持ちが良かったし、部屋の調度品は何万年という時を経ても新品同様ニスの香りがした。サリエルは愛おしげに自らの所有物を一撫でしてはにっこりと微笑むのだ。それが彼にとっての日課であり、全てだった。
ある日、懇意にしている黒髪の大天使が珍しく土産を持ち込んだ。
「地上で見つけてきたんだ」
そう差し出された掌の上には、橙色をした果実がちょこんと乗っている。
艶やかな丸みを帯びたフォルムにサリエルの心は好奇に踊った。
「どうだ、天界には無い類の実だろう?」
「俺にくれるのか、ルシフェル」
赤い目をした大天使は可笑しげに仰け反って、そら、と蜜柑を投げ寄越した。慌てて受け止める。柑橘の香りが鼻を突く。
目の覚めるような爽やかな芳香に、嗚呼なんて素晴らしい恵みなのだろう、とサリエルは思った。
ルシフェルが行ってしまった後も彼は果実を撫で回して、それからそうっと引き出しへと仕舞いこんだ。
なんて素晴らしいんだろう。こんなに美しいものが、これから俺のものになるなんて!
次の日、サリエルは緩む頬を隠しもせずに引き出しを開けてみた。
だがそこにあったのは、昨日の美しさなど見る影もない、変色してぶよぶよとした死体だけだった。
サリエルには分からなかった。彼は自らの全てをもってして、それを守ろうと努力したのだ。だが、死体が再び蘇ることはない。
そっと蜜柑を指先で摘まみ上げるとしわがれた皮膚のような感触がした。
サリエルは蜜柑の死体をじっと見つめた。
美しい、などとは微塵も思わなかった。だが、それ以上の波のような衝動が彼の心を押し流した。
いとしい、と。
彼は腐った蜜柑を見つめ、間違いなく、この上なく、ただただ愛しいと感じていた。生唾を飲み込むゴクリという音が、几帳面に整えられた調度品に反響する。
その日からサリエルの姿を天界で見掛けることはない。黒髪の大天使は何かを思いながら、遠い遠い場所を雲越しに見据えている。
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