ルシフェルは男を抱え直した。ぴり、とひりつくような痛みと共に、肉の重みがずっしりと腕に加わる。それでも心中はほっと落ち着いていたので、天使は涼しい顔をしていた。脆い足場がいくら崩れようとも彼は気にする素振りさえない。
 小脇に抱えているのは哀れな男だ。今はぐったりと意識を失っているが、その身からは絶えず黒き穢れが噴き出している。
 ルシフェルはちらりと視線をやった。あれほど透き通るようだった髪も、喩えるならば安物の金メッキにまで成り下がっている。イーノック自身が安物になってしまった気がして、大天使はこっそりと眉をひそめた。そっと身を屈める。そして彼は空いている左手を青年の髪へゆっくりと差し伸べた。髪の一房を摘み上げ、水気を絞るように引き捻っていく。

 じゅう、と。

 濃い穢れがルシフェルの指先を焦がす。プラスチックを燃やしたような臭いが辺りに立ち込めた。鼻が曲がる臭いだ。焼けた鉄に水を掛けたような音がする。それでも彼は髪束から指を離さなかった。ルシフェルの手に触れた部分の髪が蜂蜜色に澄んでいく。やがて髪束が最後の一本になり、その一本を終わりまできっちり絞ると、彼はやっと手を離した。
 指先は真っ黒に焼けただれている。疼痛にも構わず、天使は男を見た。

 一瞬、髪の一房は完全に浄化されたように見えた。蜂蜜色の髪は元通りきらきらと輝いている。大天使はじっと変化を見つめていた。ならばもう一度、と手を伸ばしかける。

 するとその途端、あれほど曇りのなかった髪が再びどろどろと濁り始めた。濁りは渦を巻き、髪束へ蛇のように絡みつく。侵食は止まらない。穢れはじわじわと毛束を食い荒らしながら、遂にはまた彼の髪を元の金メッキに戻してしまった。

「駄目か」

 特に感慨らしきものは込めず、ルシフェルはぽつりと呟いた。
 まあ、こんなものだろう。元より期待など掛けてはいなかった。イーノックの中身がやられているのだから、肉の器をいくら浄めたところでそれはイタチごっこに過ぎない。

 ルシフェルは尊大な仕草でただれた左手を一振りした。絡みついていた穢れが消し飛ぶ。ふん、とルシフェルは鼻を鳴らした。あれだけ酷かった火傷さえ今は跡形もない。

「あまり面倒を掛起こしてくれるなよ」

 気絶したままの書記官へ囁きかける。柔らかな言葉を与えても、イーノックは一向に目覚める様子がない。眠り姫よろしく、ろくに息もせずにその身を天使へ預けているだけだ。
 ルシフェルは彼をまた抱え直した。ひりつく痛みにはもう慣れた。

「……もっとも、お前はいつも度が過ぎるほど良い子だけどね」

 大天使は穏やかに笑い、足場の行く先を見上げた。冥界の空の果てに突如裂け目が現れる。びりびりと裂けていく隙間から光が差し込み始めた。それは天界の光に比べればあまりにも頼りなく微弱だったが、彼は眩しそうに目を細める。地上の光も、無いよりは余程いい。
 彼らは足場もろとも世界の境界へ真っ直ぐに突っ込んだ。境界を隔てていた壁はガラガラと音を立てて崩れていく。元より脆弱だった足場は最早ひとたまりもなく、壁と共に砕けて散った。境界の破片が舞い飛び混ざる。

 そのとき飛び交う瓦礫の間から、一筋の白き閃光が猛スピードで飛び出した。白い光の塊はあっという間に上昇し、瓦礫の嵐を抜け、そのまま遠く彼方へと消えていく。
 崩れた境界は彼らを吐き出した後、すぐさま跡形もなく塞がってしまった。パズルのピースを合わせるような慎重さで合わさると、繋ぎ目はもうどこにもない。一分の隙間さえ残さずに、冥界と地上はまた元の通り分け隔てられた。
 何事もなかったかのような地面の上には一枚、純白の羽根が落ちている。



 人間を抱えた大天使は切り立った崖を通り抜け、集落を跳び越し、森を超えた。鼻歌でも口ずさみそうな気楽さでルシフェルは地上を見渡す。地上に置いておいた目印を探していたのだ。そして、彼はそれを発見した。
 高度を下げる。目印とはあの冥界から救い上げた少女のことだ。近づくほど、イシュタールの魂の輝きが鮮明に浮かび上がってくる。虹色に煌く川のほとり、そこに彼女はぽつりとしゃがんでいた。

 ルシフェルはイーノックを両腕で抱え込む。そしてぐっと頭を下げた。きりもみ降下だ。速度はぐんぐんと速くなり、もし彼らを見るものがあったなら流れ星にでも見えたことだろう。天使の黒い髪が激しく風を切る。
 腕の中のイーノックが小さく呻いた。きょとん、とルシフェルは瞬きをする。肉の身体には負荷が辛いのだろうか。天使にとってはそよ風程度のものでしかなかったが、思い直してそっと青年を持ち直す。衝撃をかばうように頭部を胸で抱えてやると、イーノックはようやく楽になったようだった。
 地表が迫る。ルシフェルはひらりと胸をそらした。風の抵抗をクッション代わりにして、天使は華麗に着地した。つま先が地面に触れる。ふわりと砂塵が舞った。

 少女ナンナは懺悔でもするように膝を折っている。それとも、何かを祈っているのだろうか。瞑想する小さな額には汗が浮かんでいる。これはこれは幼いのに感心なことだ、とルシフェルは少女を見やった。真冥界へ引き込まれたはずにも関わらず、彼女の身体からは穢れの臭いがしなかった。それは幼き純粋さゆえか、それともイシュタールの器となった影響か……。ふうん、とルシフェルは興味深そうに顎を撫でた。
 大天使はナンナの背後を猫のようにすり抜けた。彼女に姿を見られるはずがないと思っていたものだから、足の運びは少々乱暴だ。川沿いの砂利をけちらし、柔らかな土の上へイーノックを横たえる。薄く開いた唇には血色がない。だが、確かに生きてはいるはずなのだ。
 色の悪い唇をつうとなぞる。イーノックのような無骨な男でも、ここだけは柔らかいのか。

 イーノックを横たえる音に気付き、ナンナがふと祈るのをやめた。少女は肩越しに振り返る。彼女は光のない両目をきょろきょろと左右に動かしている。音の出処を探っているのだろう。だが、それ以上音が立つ気配はない。仕方なく彼女はおそるおそるといった様子で、四つん這いになって進み始めた。紅葉のような小さな両手が地面を触りながら進む。ルシフェルは腕組みをしたままナンナをじっと見つめていた。そして彼女が足元にまで来ると、ひょい、と長い脚でまたいでやる。頬を撫でた風に少女は一瞬顔を上げかけたが、すぐにまた進み始めた。
 彼女の広げた手の先が、投げ出されたイーノックの髪に触れる。きゃっと声をあげてナンナは手を引いた。思いも寄らない感触に怯えたようだった。しかし彼女は勇敢だった。深呼吸をしてから、もう一度手を伸ばす。今度はしっかりとイーノックの髪を掴み、するすると指で撫でた。
 ナンナは指を滑らせる。視線を動かすように、髪の生え際から鼻筋を通り、閉じられたままの瞼を撫で、骨張った輪郭をなぞった。

「あなた……もしかして……」

 不安そうな声で呼び掛けるものの、当の本人からは何の返事もない。戸惑いながらも少女は指を使って青年をじっと見つめる。凛々しい顎、筋肉の隆起した首元。彼女はやがて、そうっと鼻を近づけてみた。漂うのはいつか嗅いだことのある、熱っぽい香油の匂い。

「! イーノック、イーノックね!」

 疑問が確信へと変わり、ナンナは驚きと共に叫んだ。いつものあの太陽のような暖かさが失われていたものだから、すぐに彼とは気付けなかったのだ。彼女は慌ててイーノックの胸に耳を当てた。かろうじて弱々しい鼓動が聞こえてくる。
 ナンナは泣きそうな表情で頭を持ち上げた。このままではイーノックが死んでしまうかもしれない!

「ああ、どうしよう」

 こうしてただ慌てているだけでは何も解決しない。そんなことは分かっている。だが平静を失った少女が冷静な対処を取れるはずがなかった。じわじわと瞳の表面に涙の膜が張り始める。幼い彼女にできることは少ない。
 ああ、なんて無力なんだろう。

「どうしよう、どうしよう」

 見かねたルシフェルは眉を下げた。大天使は音もなくナンナの傍へ歩み寄る。そっと膝を屈めると、乙女のように赤い唇を少女の耳元へと近付けた。与えるのは、蛇が知恵の実を勧めるがごとき甘美な囁き。

「水を汲んでおいで。
 一杯は彼の身を清める為に使い、もう一杯は君自身を落ち着ける為に使うんだ」

 ハッとしてナンナは顔を上げた。その評定にはもう嘆きの色はない。少女は振り返り、今度こそ声の出処をじっと見つめた。彼女の視線は真っ直ぐに天使の赤い瞳を覗き込んでいる。少なくともルシフェルにはそう見えた。イーノック以外の人間にこれほど見つめられたことはない。ルシフェルは居心地が悪そうに咳払いをした。
 見えているのだろうか、この私が。それとも単なる偶然か? 普通の人間には気付かれるはずがないのだが、と頬を掻く。
 暫くの間、ナンナは無言を貫いたまま天使を眺めていた。瞳はころんと丸く見開かれている。だがやがて彼女は恥じらったように目を伏せた。大きな畏怖を前にしたときに見せる躊躇いだ。ナンナはぎゅうと拳を握り込む。ボロ布のようなスカートが皺くちゃによれる。その手が小刻みに震えていることにルシフェルは気付いた。
 少女は立ち上がり、にじるように後ずさった。そして十分に天使と距離をとると、彼女は一目散に駆けていく。向かう先は川の上流のようだった。

「ふむ」

 ルシフェルは小首を傾げた。見られていたかは定かではないが、確認してみる価値はあるな。ひとまず彼女が水を汲んでくるのを待つとしようか。鴉の濡羽色をした天使は遠くナンナを見送って、傾けた首をゆらりと戻した。

「まあいいさ」

 ルシフェルは倒れたままの男を一瞥した。仰向けに寝かされた身体は呼吸に合わせて胸を上下させている。膝をついて、金の頭を持ち上げる。瞼は固く閉じられたままだ。開けるには鍵が必要なのだろうか、などと馬鹿げたことを思いついて、ルシフェルは苦々しく笑う。
 そういえば未来の人間が綴った物語の中に、眠る姫をくちづけで目覚めさせた王子の話があったな。だが残念ながら、私は物語の主要人物じゃない。単なる傍観者、ストーリーテラーのひとりに過ぎない。だから決してくちづけることはせず、大天使はそうっと青年の頬の形をなぞった。

「お前はいつになったら目覚めるんだ」

 ぺし、と剥き出しの額を指ではたく。決して乱暴な所作ではなく、むしろ愛おしげにさえ見えるものだった。

「早く戻っておいで」



 そこに、ピリリリ、と着信音が鳴り響いた。
 ルシフェルは何食わぬ顔をして、する、とポケットから携帯を取り出す。携帯電話の機体は滑るように彼の手中へ収まった。

「そろそろ来る頃だと思っていたよ」

 手慣れた動作で通話を取った大天使は、話しながらイーノックの顔に付着していた泥を親指で拭ってやった。

「連れて帰ってはきたが、どうするんだい。すっかり穢れきっているよ。そこからでも見えるだろう?」

 ルシフェルはイーノックの頭を抱いたまま、ちらと淀んだ空を見上げた。無頼な仕草で手を振ってみせる。帳の向こうは相変わらず見えない。大天使は慈しむように、書記官の乱れた前髪をちょいと直してやった。普段とは感触さえ違い、水気もなく軋む髪。

「……うん。なるほどね。こちらで肉体の時を止めておけばいいんだな。私はそちらへは行けないから、後はよろしく頼むよ。……何がって? イーノックを、だよ」

 次いで神が続けた言葉を聞き、思わずルシフェルは高笑いをあげた。

「君は心配性だなあ! 大丈夫だよ。これくらいの穢れに触ったところで、私に何の影響が出るものか。
 ……と、すまない」

 通話をしているルシフェルの腕の中で突然、気絶していた青年がもぞりと動き始めた。弱々しい動きではあったが動いたことには変わりない。話しかけの携帯電話を放り出して、大天使は食らいつくようにイーノックへとのめり込んだ。書記官は金の睫毛を苦しげに震わせている。ぐう、と呻くと彼は胸を掻きむしった。
 ルシフェルは伸ばした手の先で軽く彼の頬をはたいた。

「イーノック、起きたのか。目を開けろ」

 呼び声を受けてか、イーノックはもどかしそうに眉根を寄せた。深すぎた眠りの底から懸命に這い上がってきているようだった。見守るルシフェルの視線は柔らかい。立てない仔馬を見るがごとき穏やかさだ。
 やがて、長い眠りから青年は目覚めた。重い瞼をなんとか押し上げ、開けた隙間から光を取り込む。濁った瞳が陽の下に晒された。
 ぐるうり、と蒼い虹彩が辺りを見回す。半分開いたまま放置されている口唇が妙に不気味だった。温度のない、人形のような顔を引っ下げて、イーノックは視線を巡らせた。横たえられたままの我が身にはとんと興味がないようだった。
 イーノックは息を吐き出した。紫色の穢れが渦を巻いて漂う。穢れの煙を吐きながら、青年は呆けた顔でルシフェルを見た。焦点の合っていない目が大天使を捉える。
 むくり。イーノックが身を起こす。言葉はない。

「どうだ、気分は」

 静かな声でそう尋ねて、ルシフェルは彼の剥き出しにされた肩に手を伸ばした。撫ぜてやろうとしたのだ。


 しかし、そのときだった。

 イーノックは狼のごとき唸り声をあげ、大きく口を開けると牙を剥いた。目は爛々と狂気をたたえている。どす黒い悪意の色だ。
 彼は自分へ差し伸べられた手を思い切り振り払った。叩かれたルシフェルの白い腕が宙を彷徨う。呆気にとられる間も与えず、イーノックはルシフェルのがら空きだった懐へと飛び込んだ。獣が獲物へ飛びつくように、青年は我も忘れて歯を剥き出す。
 穢れに満ちた彼にとって、目の前の清らかな生き物は敵でしかなかった。侵された精神に導かれるがまま、イーノックはルシフェルの肩へ勢い良く噛み付いた。犬歯がアストラル体でできた身体へ食い込み、血ではない何かが裂かれた皮膚から滲み出る。言いようのない達成感がイーノックの暗い心に澱となって満ちた。悪い笑いにたゆたいながら、彼は余計に牙を食い込ませる。天使を噛みちぎらんばかりに顎をがちがちと合わせる。
 イーノックの自我は既に穢れと黒い愉悦によって食い尽くされていたのだった。もはやイーノックですらなくなりかけた男は、大天使を貪るように齧った。

 ――私たちの勝ちだ。冥界へ片足を取られた男は暗澹と笑った。

 だが、穢れた男はふと気付く。これだけ傷をつけられているにも関わらず、ルシフェルは一言たりとも呻かなかった。それどころか食い込む歯を振り払うこともない。ぴくりとも動かず、彼は噛まれるがままになっている。
 穢れは尚吐き出され続けている。猛毒を傷口に直接注がれているような痛みだろう。声には出さずとも、さぞ苦悶の表情を浮かべているに違いない。容赦なく犬歯を深々と刺しながら、イーノックは淀んだ目でルシフェルの顔を睨み据えた。





 ルシフェルは微笑んでいた。



 慈愛に満ちた、聖母のような微笑みだった。乳母がミルクをやるような、柔らかな安堵さえもがそこにはあった。推し量れぬほどの慈しみと共にイーノックの頭へ手をやり、指で絡んだ髪を梳いている。痛苦の色など欠片ほども浮かびはしない。愛おしげに長い睫毛を伏せ、ルシフェルはゆったりとイーノックを抱いていた。

 あまりの慈愛の大きさに、ある種の威圧感さえ生み出されている。穢れた男は圧倒され、思わず咬み合わせた顎を外した。

「痛いのか。苦しいのか」

 静けさを保ったままルシフェルが囁く。髪を梳く手は動きを止めない。火傷で指先がただれても、彼はイーノックの傍らを守り続ける。
 穢れた男は天使を畏れた。怯えたように身を引き、光から逃れようと痙攣する。

「君を蝕んでいるのは苦悩の痛みだ。人間が進化するためには不可欠な痛みだ。君も勿論分かっているとは思うがね」

 ルシフェルはイーノックを逃しはしない。引け腰を見せる彼を抱きとめ、囁きをより深く突き刺す。

「全ての穢れを浄め、再び必ずこの地へ戻るんだ。君にはそれを成し遂げる力がある」

 穢れたままの男にとって、天使の全ては明けの明星のごとく光り輝いた。光は痛みだ。あらゆるものを浄める凶器だ。
 暴れ出すイーノックを彼は柔らかく押さえた。ルシフェルは尚も微笑んでいる。そのまま天使は左手を差し出した。時を自在に操ることのできる、神性を秘めた指先。

「さあ、行ってこい」

 いつもと同じく、もしくはやや力強く、ルシフェルの指が鳴らされる。
 その瞬間、暴れていたイーノックの足元から、丸みを帯びた水晶のオブジェが次々と突き出した。透明なそれはあっという間に彼の両脚を捉える。足を拘束され、青年は引き抜こうと必死に足掻いた。だがそれも無駄な抵抗だった。生きた水晶は青年の足へ絡みつき、次第に彼の表面を覆っていく。為す術も無く身体は透明な石の中へと埋まっていく。水晶は彼の膝をまず浸し、腰を埋め、遂には逃れようと伸ばした腕の先までもを覆ってしまった。石へ閉じ込められたイーノックは、まるで水の中にでも沈んでいるかのように息を止めている。

 ルシフェルはゆったりと立ち上がった。先ほど放り出した携帯電話を掴み上げ、耳元へと持っていく。通話は案の定繋がったままだった。

「やあ、待たせてすまないね。今そちらに送り届けたよ。肉の器はこちらで保管しておくから、後はそっちでうまくやってくれ。
 ……うん? ああ、私の肩か」

 天使は横目で自らの肩を見やって、苦く笑う。

「酷く痛むよ。あいつ、相変わらず手加減を知らないな。
 大丈夫。時間を掛ければこれくらい自分で治せる。君の手を借りるまでもないよ。あいつの帰りを待つ間、のんびり治すさ」

 噛まれた傷は燃えるように痛んだ。植え付けられた穢れが膿のようにじくじくと漏れてくる。イーノックがいなくなった今、ルシフェルは破られた肩を反対側の手でかばった。眉間に苦しげな皺が寄る。耐えてはいたが、もう限界だ。聖なる体に冥界の穢れを打ち込まれれば、さすがの大天使とて傷つかないはずがない。
 手をかざし、治癒を行う。彼に噛まれた傷は容易くは治らず、ルシフェルの体に三日月型の痕を残している。

 電話越しで神が笑った。彼があまりにも呆れ返ったような物言いをするので、ルシフェルは困惑のままに眉を下げた。

「私が献身的だって? さあ、どうだか。
 けどあいつ、ただでさえ自分が痛い状況で、私まで痛がったら嫌がるだろう。だから避けなかった、それだけのことだよ」

 神は感心したようだった。彼が漏らした褒め言葉に、ルシフェルは満足そうににんまりと笑った。

「あいつは私のお気に入りだからね」

 三日月型の傷は未だじくじくと膿を滲ませている。ルシフェルはふらりと水晶へ歩み寄り、中で溺れる男を見つめた。そうして天使は電話を切ると、水晶の壁越しにくちづけを落とす。慈愛のこもった祝福のくちづけ。

「待っているよ、イーノック」

 青年は苦悶に顔を引き攣らせ、ルシフェルの献身にも気付かないまま水晶にとぷんと沈んでいる。




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