ソーダ・ガラス・ソーダ



「海の色だ」

 彼が言った言葉を、私は聞き逃さなかった。

「なんだって?」
「この、あなたの持ってきた袋の中に入っている、瓶のような」
「ああ、いいよ。今そちらを向くから」

 仕方なく重い頭を上げる。
 数百年単位で積み上げてきた仕事――後回しとも言うが、それを切り崩しながら、彼の要領の得ない解説を聞くのには少々骨が折れる。
 目をやるとちょうど、彼が申し訳なさそうにおろおろとしているところだった。

「で、なんだって?」
「すまない、あなたの手を止めるつもりは」
「でかい図体をして、まるで女のような受け答えだな。いいから、何のことだ?」

 彼は泣きそうな顔をした。叱られた子どもか、はたまた犬のようだった。後ろ手に持たれていた何かが、おずおずと差し出される。

「ただ私は……これが、海の色に似ていると思って」
「――ソーダ水か」

 イーノックが持っていたのはペットボトルだった。先日、気まぐれを起こして買ったものだ。つるんとしたラベルが貼られた、いかにも現代的なポリエチレン製のそれを、この時代遅れが手にしているのは何とも奇妙な光景だった。
 薄青色の液体は窮屈そうに揺れている。私は彼が容器を振ってしまわないかが心配だった。

「それはソーダ水というんだ。炭酸水に甘味料を加えた飲み物さ」
「ソーダ水」
「興味があるのか」

 真剣な面持ちで書記官が頷く。

「綺麗な色だ。海の上澄みを掬いとったような、そんな風に見える」
「なら、試してみるといい。上部の蓋、そう、白い部分だ。そこを回してみろ」
「わかった」

 彼は真面目くさった顔で蓋を捻った。

 ぶしゅ。
 掌の中で弾けたそれを、驚いた様子でイーノックが見る。その表情がやけに小気味良かった。彼の手は濡れたようだった。
 困惑で固まる青年に、飲めよ、と促す。

「爆発したぞ。それに、沸騰しているらしい。泡がこんなに」
「見間違いだろう」

 くつくつと喉の奥から笑いがこみ上げる。

「よしんば爆発したとしても、ここは天界、死にはしないさ。飲んでみろよ」

 寡黙なくせに、表情だけはころころ変わる奴だ。
 だが、ようやく腹が決まったらしい。イーノックはペットボトルの表面をべたべたと触りながら、それが常温であることの確認を取った。
 渦を巻いたような飲み口に、そっと唇を寄せる。腰は引けているくせに、唇ばかりを尖らせているから、私は可笑しくて堪らなかった。

 ボトルが傾くと、彼の眉間の皺が更に濃くなる。
 ぐ、と微かな嗚咽の音。

「……ばちばちする」

 イーノックは神妙な顔で、たったそれだけの感想を述べた。

 堪え切れなかった。
 思わず噴き出す。羊皮紙が丸まり飛んでいく。

「どうだ? 海の色の味は」
「舌が壊れたらしい……頬の内側もだ」
「液体の中に、空気が混ぜ込んであるんだ。それが弾けているだけだから、害はないよ。気に入らなかったかな」
「私は、」

イーノックは言った。

「一口で十分だ」

 笑いながら、私は彼の手からペットボトルを取り上げる。
 開いたままの蓋から、ソーダ水がとぷんと散った。濡れた手の甲はたぶん、後になってべたつくのだろう。
 ボトルの中身は相変わらず、透き通った青色をしている。

「あ」

と彼が言ったのは、その瞬間だった。

「ルシフェル、その。あなたさえ良ければ、もう一口貰えるだろうか」

 その瞬間、おそらく私は、顔を輝せたのだと思う。
 私は喜んでペットボトルを差し出した。何故だか、イーノックの心変わりが酷く嬉しかった。飲ませてみた相手は多かったが、ふた口目をせがんだのは彼だけだった。天使は頭が固いのだ。
 彼は端的に礼を述べると、再度飲み口へ唇をつけた。

 ふた口目は慣れていた。書記官は再び神妙な顔をしたが、今度は納得がいったようだった。

「甘い。不思議な味だ。滝の飛沫を水に溶かして、飲んでいるような心地だ」
「さっきよりは幾分かマシな感想だな」

 彼は断りなく三口目を含んだが、私は咎めなかった。
 しばらくしてから、そっと声を掛ける。

「気に入ったなら、次は君の分も買ってきてやるよ。なんなら、それもやろう」

 イーノックははっと気付いて、手元のボトルを注視した。既に中身は三分の二まで減っている。
 その後の彼の慌てぶりといったらなかった。何度も味を確かめているうちに、自分がどれだけ飲んでいたのだか分からなくなったのだろう。
 傍からわかるほど落胆しながら、

「すまない、ルシフェル」

と書記官はうつむいた。

「気にするな。私は共感者が得られて機嫌がいいんだ」

 私は微笑んでみせ、手渡されたソーダ水を一口含む。爽やかな甘味が頬の内側で弾ける。
 個人的には、人間の進化の中でも指折りの発明だと思っている。ミカエルは気に入らなかったらしいが、まあいい。代わりにこの男の気に召したというのも、何かの巡り合わせだろう。
 泡が喉を通っていく。ちりちりと冷たい火花が散る。粘膜を刺激されて、私はばりばりと喉を掻いた。

「あなたはそれが似合うな」

 彼がふとそんなことを言うので、私は手を止める。

「似合う?」
「ガラスを溶かしたような飲み物だから、あなたのアストラル体によく似合う、と思う」

 イーノックはそう言って照れくさそうに微笑むと、

「それに、白藍色にあなたの姿が乱反射して……とても綺麗だ」

と言った。

 私は黙りこくったまま、もう一度ペットボトルを煽った。薄青色の液体が喉へ流れ込んでくる。
 この薄青色は、人工着色料の色だ。ガラスでもなければ水晶でもない。恐らく、私のアストラル体とは真逆の位置にあるものだろう。
 それを似合うかどうか、など、考えもしなかった。
 ばちばちと弾ける炭酸の刺激に、私は小さく笑う。

「ルシフェル?」
「君は時折、面白い発想をするな」
「あなたの気を害しただろうか」

と、犬のような顔をして、彼。

「いいや、気に入ったよ。海色と言ったりガラスと言ったり、詩人の才能もあるんじゃないか?」

 私は軽く舌を出して、唇の端を舐めとった。生乾きのソーダ水の味がした。酷くべたつくような甘さだ。
 不意に思い立って、ボトルをイーノックへ差し出す。

「ソーダ水はもういらないのか?」

 尋ねると、物欲しそうな視線がペットボトルの表面を撫でていく。ボトルを揺らすと、瞳までちらちらと揺れるのが滑稽だった。碧い、海の深い部分を汲み取ったような色の瞳。透き通った紺碧色――。
 ソーダ水なら彼の方がよほど似合うと思っていたが、あえて言わなかった。

「いるなら取りに来い。好きなだけ飲むがいいさ」

 ふらふらと、まるで夢遊病患者のように、イーノックが近寄ってくる。
 ボトルに褐色の指先が触れる前に、私はすいとそれを逃した。目の前で餌を取り上げられて、犬は更に犬らしくなる。人間にもし尻尾があれば、光景はなおのこと顕著だっただろう。

 乞うような彼の目の前で、私はソーダ水を煽った。
 飲み切れなかった分が唇の端から溢れて、頬に一筋の流れを作る。首筋まで流れたそれは鎖骨を通り、シャツの中へと伝い落ちた。肌の上を滑る炭酸が、泡となり弾けていく。
 イーノックの喉が、ごくり、と鳴るのが聞こえた。

「ルシフェル……」

 掠れた声だ。熱っぽい声に満足して、私はペットボトルから口を離す。

「早くしないと、なくなってしまうぞ」

 言葉の効果は絶大だった。
 怒ったような表情をして、彼が覆いかぶさってきた。






 一定の振動を感じながら、私は彼の背中を抱く。
 彼の髪からは草の匂いがした。あるいは土の匂いだろうか? 天界へ召し上げられて久しいのに、未だそんな匂いがするのが不思議だった。
 汗が垂れてくる。私の額に当たったそれは、そのままこめかみへと流れていく。生ぬるい温度だった。私は女のように足を開きながら、目の前で揺れる金の髪をぼうっと見ていた。

「はっ、はッ……る、ルシフェルッ……」

 顔をぐしゃぐしゃに歪ませて、うわ言のようにイーノックが囁く。幾度となく行為を重ねているくせに、この男はいつもこの顔をする。
 背徳感に満ちた顔だ。神に赦しを乞う顔だ。
 それが堪らなく愉快で、私は腰を揺らしてやる。やんわりと回すように動かすと、青年は今にも泣き出しそうな声で啼いた。

「あっ、ぁ! 駄目だ、ルシフェルッ」
「我慢は身体に毒だぞ。さっさと吐精してしまえ」

 いやいやとイーノックが頭を振り乱す。この男は私にまたがっているくせに、決して私には逆らえない。そんな愚直で浅ましいところが、まったくもって好ましかった。

 彼との行為に嫌悪はない。むしろ今は、退屈な天界における唯一の楽しみとなっていた。たとえ彼の性処理が私の使命であり、私と彼が特別な関係でなくとも、楽しみは楽しみで間違いなかった。感傷などあるものか。
 だから彼が求めてくれば、私は喜んで脚を開いた。まあ、彼の方から求めてくることはほとんどなかったのだが。

 実のところセックスの快感はそれほどなかった。私には生殖機能がないのだから当たり前だろう。ただし、気分はそれなりに昂ぶる。彼の火照った表情には、媚薬的な効果でもあるのだろうか。
 私はもぞもぞと背中をよじらせながら、イーノックの首にすがりついた。彼の腰に白い足を絡みつかせると、暗がりに浮かぶコントラスト。

 ――ぐぷ。
 深く、挿入ってくる。
 圧迫感に襲われて、私は意図せず喘いだ。

「くッ……!」

 その瞬間、イーノックは腰を最奥へ打ち付けると、遂に動きを止めた。
 私の腰を掴みながら、小刻みに肩を揺らしている。生暖かい感覚が私のナカへじわじわと滲んでいく。内側からゆるゆると食われていくような心地がした。
 うつむいた彼の顔にかかる睫毛の影がやたらと長いので、そっと手を伸ばしてみる。上気した頬をなぞると、熱の塊に触れたような手触りがした。

 イーノックはまだ動かない。
 私はだらりと顎を持ち上げて、視界の右上に映るペットボトルを見た。倒れたボトルの口からは、だらだらと液体が零れている。
 床の染みは、拭けば消えるだろうか。
 磨かせる役目はイーノックにさせよう、と私は口角を上げた。


 どさ、と。

 唐突に、彼の体重がのしかかってくる。崩れ落ちるかのようだった。私は本の栞のように、ベッドとイーノックとに挟まれた。荒い息遣いが耳元で聞こえる。
 私は唇を尖らせる。

「重いぞ、イーノック」
「すまない……しかし、どうか、このままで……」

 言い終わらないうちに、軽い寝息が聞こえ始めた。
 唯一自由な左手で、私は頭を抱えた。この男にのしかかられたままでは、ろくに身動きすら取れないじゃないか。
 こうなってしまってはどうしようもない。私も眠ることにした。仕方がない。目が覚めるまでの辛抱だ。朝までに私がぺしゃんこに潰れてしまっていなければ、の話だが。

 瞼を下ろす。呼吸を整えて――。






 ……ばちばちと。
 自分の足がソーダ水になったように思えて、私は再度目を開いた。

 イーノックは私の上で、ぐうぐうと眠っている。胸にすがりつく辺りは赤ん坊じみていた。いや、しかし、今はそんな場合ではない。
 私は自由な左手を伸ばして、自分の太ももを確かめる。脚は何食わぬ顔をして、いつもと同じように、いつもと同じ場所についていた。

 いつもと違うのは、炭酸の弾けるような、ぱちぱちとした感触。

「……なんだ。痺れているのか」

 ぽつりと呟いても、彼は一向に起きる様子がない。
 彼の全体重を受けて、どうやら私の脚は痺れているようだった。そのむず痒い感触を、炭酸の刺激と間違えたらしい。普段なら取り違えようもないのだが、もしや私も疲れているのだろうか。

 ぷつぷつ。ばちばち。

 薄青色のソーダ水を思い出し、私はその輪郭を天井に思い描いた。

 この脚がソーダ水になってしまえたら、この男は喜んでそれを飲むのだろうか。透き通っている振りをして、本当は毒で満たされた私の脚を、硝子のグラスへと注いで、綺麗だ、と笑いながら。

「――馬鹿馬鹿しい」

 痺れはいつか消えてなくなる。炭酸も抜ければ、ただの水だ。そうなれば彼も、たかが気の抜けたソーダ水ごときを取っておくことはしないだろう。
 そういうものだ。

 私は今度こそ瞼を固く閉じた。そして、これ以上は何も考えないことにした。







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