イーノックは空を仰いでいた。書記官の瞳が碧色を増していく。とーんと抜けた空は果てがないように見えて、青年は心ごと吸い込まれていくかのようだった。背中に当たる湿った草の感触も心地良い。
大きく息を吐く。鼻腔に泥と砂の匂いがした。
「お前、こんなところにいたのか」
ぬう、と視界を遮った影がある。艶やかな黒髪、赤く光る瞳。
「ルシフェル」
イーノックは目を瞬かせて、かの大天使の名を呼んだ。
「牛のように転がっているから、てっきり寝ているものだと思ったら」
「あなたにはデリカシーが足りないぞ」
「天使というものは、どんなときでも真実だけを告げるものだからな」
ルシフェルがやたらと厳かに言うものだから、書記官は思わず噴き出してしまった。
「それは、恋仲の相手にも有効なのか?」
「分かった、分かった。まったく。図体だけはでかいくせに、女のような奴だ。 それならお前はこう言えば満足なんだな? 『私の仔猫イーノックよ、(ここで遂にイーノックは腹を抱えて笑い出したのだが、ルシフェルは真面目くさった顔を続けている)その鈍重な御身を起こし、我が前に頭を垂れなさい。金星の守護者、大天使ルシフェルの名のもとにこれを命ずる。アーメン』」
それだけ言うと、黒衣の天使はひょいと肩をすくめた。
「で、何を見ていたのかな」
ルシフェルが隣に寝転んだのを認めてから、青年は視線で空を示した。つられるようにして、ルシフェルも天を仰ぐ。
しばらくの間、二人は言葉を交わすことなく、心を空に奪われていた。
「穏やかだなあ」
イーノックが呟く。
「この空の下で、誰かが飢えて、誰かが死んでいるなんて、まるで思えない」
「誰かがパンを食み、誰かが息をしている……とは考えないんだな?」
「私は、人間だから」
「そんなものか」
二人は口をつぐんだ。
静かに澄んだ天の海に、白雲の舟がすうと流れていく。
「……私にできるだろうか。全ての未来に、穏やかな生を授けることが」
「お前ならできるよ」
何事でもないかのように、飄々とルシフェルが答える。まるで気のない返事だったが、誇張じみた響きもなかった。天使が嘘を吐かないことを、イーノックは知っている。
だから彼はひとつ、へらりと笑って、
「そうか」
と言った。
「なあ、キスをしてくれないか、ルシフェル」
「よかったよ。そろそろ空に嫉妬するところだった」
そうして、二人は唇を重ね合わせた。
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