行くのか、とメタトロンはもう一度繰り返した。引き止めるでもなく、惜しむでもない。ひたすらに淡々とした声色をしていた。黒髪の天使は頷いてみせる。赤い瞳だけがルビー石のように、その場にそぐわぬ光を発し続けていた。
「お前が行くと言うのなら、」
メタトロンは口を開く。
「神はお前を追えとの命を下すだろう。御目の届かぬ場所などない。陽に焼かれて朽ちる前に、悪いことは言わない、考え直せ」
「お前こそ忘れているようだが」
唐突にルシフェルが口を挟んだので、大いなる大天使は驚いて目を見張った。
「御目の届かぬ場所なら、お前もその目で見たはずだろう? 堕天使のこしらえた帳の中身を求めて、365年も彷徨ったお前はどこへ行ったんだ? 光も届かぬ冥界の闇は?」
メタトロンは何も言わなかった。ただ唇を引き結んだまま、おもむろにアーチを引き出す。眩い神の武器の輝き。それは今のルシフェルにとって、痛くて堪らないものだった。
「それ以上【彼】を侮辱するようなら――」
「ああ、いいよ」
赤い瞳を翳らせて、ルシフェルはぽつりと囁いた。
「つまりお前は、お前じゃなくなったってことだな」
彼はそれだけ呟くと、自らの胸に手を差し入れた。焦げそうに熱い塊を抜き出して、供物のようにそれを投げ出す。
「これは置いていくよ。もっとも、今のお前にはいらないものだろうが」
メタトロンが首を傾げようとした寸前、天使の体が凪いだ。
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