星屑ひとつ、落っこちた



 月の無い夜だった。岩場に腰を落ち着けて、堕天使は夜空を見上げていた。帳の内側から見る空も、何ら変わらず美しい。星々は輝き、光は降り注ぐ。星光のシャワーを顔いっぱいに受けながら、サリエルは静かに目を閉じていた。金の睫毛に光が二、三、宿っては消えていく。物憂げな表情を浮かべながら、堕天使は何を想うのだろう。もしかするとそれは、彼の年老いた妻のことだったのかもしれないし、うら若き幼妻達の未来だったのかもしれない。サリエルの聡明な頭は常に動いている。絶え間ない思考は地上に来てからこの方、休まることがなかった。

 もの淋しい彼の背中を、見つめ続けている女がいた。艶やかな黒い髪をした、そばかすだらけの女だった。年は十八、九、といったところだろうか。彼女もまた、数多くいるサリエルの妻達のうちの一人だった。
 女は目の前の光景に、うっとりと目を奪われていた。

 嗚呼、サリエル様、自分の夫は、なぜああも美しいのだろう!

 闇にとぷんと沈む堕天使の姿は、彼女のような年頃の娘にとって、人智を超えた美しさに思えた。彼の肌は陶器のように滑らかだし、落ち着いた色の瞳といったら柔和そのものだ。鼻筋はこれ以上ないほどに通っていたし、加えてあの長い睫毛といったら!
 娘は、ほう、と淡い息を吐き出した。甘い感情が痺れのように、彼女の幼い胸を焦がした。

 声を掛けようか。あの美しい人に、私がここにいると知らせてしまおうか。
 娘は唇を開きかけた。しかし、すぐにきゅっと引き結んでしまう。

 いけない、と彼女は思った。私のような醜い娘が、夫の麗姿を壊すなど――決してあってはならないことだ。
 娘は純朴だった。一途にサリエルを想っていたが、その実、自らの容姿が憎くて堪らなかった。鼻は低く、目は小さい。その上両頬に掛けては、無数のそばかすが散っている。それは年頃の娘によくある、ほんの些細な悩みだった。だが彼女自身にとっては、命にさえ匹敵する深刻さを秘めた悩みだった。
 爪を立て、自らの鼻の頭を掻く。がり。痛みばかりが走るだけで、醜悪なそばかすは取れそうにない。

 もし、私が美しかったら。彼女は思う。夜空に溶け込む夫の隣に、そっと寄り添うことができるのに。
 溜め息をつく。悲しげな響きだった。女は肩を落としながら、ひっそりと踵を返す。サリエルに気付かれないよう、その場を立ち去ろうとしたのだ。


 しかし、そんな彼女の姿を、始めから見ていたものがいた。――風だ。

 娘が立ち去ろうとした、そのとき。湿り気を帯びた風が一陣、さあっと吹き荒れた。
 ふと我に返って、サリエルが振り返る。認めたのは、愛しい妻の小さな背中。

「……ああ、なんだ。君もそこにいたのか」

 あまりに突然の声掛けに、寵愛者の女は勢い良く肩を跳ねさせた。おそるおそる、肩越しに振り返る。堕天使はふんわりと微笑みながら、彼女に向かって手を差し伸べているところだった。おいで、おいで。こちらへおいで。優しい手招きが娘を呼ぶ。

「隣が空いているよ。君は確か、星が好きだったね。さあ、オレの隣は特等席だ」
「あの、良いのですか」

 震える唇をかき鳴らす。

「私のような醜い娘が、あなたのお傍に座っても」

 サリエルは一瞬、きょとんと目を瞬いた。何を言っているか分からないとでも言いたげな、呆気に取られた顔だった。
 しかし、彼はすぐに破顔した。すなわち腹を抱えながら、くすくすと笑い転げたのだ。
 笑いながら、堕天使は立ち上がる。軽く岩場を蹴って、すい、と宙を泳ぐように移動し始める。もちろん、目指したのは妻の元だ。あまりに早くサリエルが近づいてくるので、娘は戸惑うばかりで、逃げることすらできなかった。
 とん、と彼のつま先が地面を叩く。
 背の高い躰をひょろりと立たせて、堕天使は妻を捕まえた。

「オレの愛しいヒト。君はまた、莫迦なことを考えていたんだね」
「莫迦な、こと?」
「そうだとも。さあ、夜空を見上げてごらん。ほら」

 サリエルは娘の顎を、その細い指で引き上げた。くい、と上向かされる。
 女の瞳に映り込んだのは、月のない夜空、満点の星々。きらきら、きらきら。金の光を宿した星が、帳のオーロラに反射する。それは圧倒的な美しさだった。彼女は胸いっぱいに空気を取り込むと、浅い呼吸を繰り返した。

「綺麗……」
「この夜空を眺めながら、オレが何を考えていたのか。君には分かるかい?」
「いいえ」

と、女は恥ずかしそうに答えた。

「あなたをずっと見つめていても、分からなかったの」
「君のことを考えていたんだよ」

 サリエルは囁いて、彼女の頬に唇を寄せた。

「この星々の流れが、君の愛しいそばかすに見えて……ああ、君は、なんて美しいんだろう! オレの可愛い妻、素晴らしい娘。君が何を考えていたのか、もちろんオレは知っているよ。だが――まったく、本当に、そんな莫迦なところも素敵だね」

 ――サリエル様――と思わず女は呟いた。
 ぽろり、小さな瞳から、星の光が落っこちて、彼女は夫の腰にしがみついたのだった。








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