聞香



 じっと腰を据えて、天使は身を潜めている。立っているのも座っているのも、彼にとっては同じことだった。天使には疲労の概念がない。ならば立っていても良かったのだが、今のルシフェルはなぜか無性に腰を下ろしたい気分だったのだ。
 溜め息をつく。待つことには慣れていない。
 ルシフェルには旅の連れがいた。もっと正確に言うならば、旅する男についてやっていたのだ。それでは、肝心のその男は今どうしているのか。
 大天使はゆったりと振り返り、右手を上げた。中指の関節で、コン、コン。背もたれ代わりにしていた水晶の塊を、軽く叩いてやる。水晶の内側には水が満ちているのか、気泡がいくつか立ち昇った。そして中には、金髪の男。ルシフェルはもう一度だけ水晶を小突いた。返事はない。それどころか、ぴくりとも動くことはない。男が苦悶の表情沈んでいる姿は、まるで趣味の悪いオブジェのようだった。
 黒衣の天使が立ち上がる。水晶の表面に額をつけ、睫毛を伏せた。

「おい」

 声を掛けても、返ってくるのは反響音のみ。

「いつまでそうしているつもりだ、イーノック。私はもう待ちくたびれてしまったよ。そんなところに浸かっていないで、早く出てきてはくれないものかな」

 返事はない。元より期待もしていなかったが、こうもつれないとさすがに堪える。
 ルシフェルは静かに目を閉じた。水晶の内側から音が聞こえる。小さな音だ。とくん、とくん。律儀過ぎるほどに一定のリズムを保ちながら、イーノックの鼓動が聞こえる。生きているのだ、紛れもなく。それを改めて認識できたので、人知れず天使は息を吐いた。内部の水が、こぽり、と泡を立てた。

 瞼を押し上げる。次いで空を仰いだ。遥かに高い空の中央には、煌く太陽がぽっかりと昇っている。手でひさしを作りながら、ルシフェルは太陽を真っ直ぐに見つめた。僅かに目を細める。もちろん天界の様子は見えない。イーノックの中身が何処でどうしているのかも、今の彼には皆目見当が付かなかった。天使はこの場に縫い止められている。神の膝下へ翔ぶこともできなければ、時を速回すこともできない。手をこまねきながら、この水晶の番をしていなければならないのだ。
 太陽を眺める。位置は先程からほとんど変わってはいない。ルシフェルは最近、太陽が数ミリ単位で動いていることを知った。無論、知識としては分かっていた。しかし実際にこの目で見たのは初めてだったのだ。そういった普段ならば気にも留めない事実が、やけに重苦しくのしかかってくる。太陽はあまりにじりじり動く。まったく焦れったいな、と天使は天球を睨みつけた。



「――天使さま?」

 不意に掛けられた声。ルシフェルは空から視線を落とした。肩越しに振り向くと、あの少女が立っている。冥界から救い出したヒトの少女だ。ナンナ、と言っただろうか。麻のスカートを握り締める手が、小刻みに震えている。しかし盲目であるはずの両瞳は、間違いなく自分を捉えている。ヒトには見えぬはずの自分の姿を。

「見えるのか、私が」

 少女は頷いたように見える。もしかすれば震えだったかもしれないが、少なくともルシフェルはそれを同意として受け取った。

「ふうん。イシュタールの加護が発現し始めたのか」

 ナンナにルシフェルの言葉は分からない。首を傾げてみせる。

「ああ、いいよ。お前に言ったところで詮のないことだろう。……村に戻ったんじゃなかったのか。イーノックを見に来たのか?」

 少女は今度こそ、正しく頷いた。

「イーノック、独りぼっちじゃ寂しいかもしれないから……」
「殊勝なことだな。一人で来たのか」
「うん」

 ルシフェルは舌を巻いた。冥界に引き摺り込まれてから幾日も経っていないというのに、この気概といったらなんだ。奇妙な獣に、おどろおどろしい風景。彼女の幼い心にとっては、さぞ恐ろしく思えたことだろう。
 天使にとって、聖人の類は心地良い。ルシフェルは僅かに目尻を下げて、少女の元へと歩み寄る。

「あいにくだが、こいつは話ができる状態ではないよ。それでも構わないと?」
「うん」
「なら、好きにするがいい」

 ナンナは仔犬じみた顔でパッと笑って、水晶の元へと駆け寄った。先ほどまでルシフェルがしていたように、額をオブジェへと擦りつける。ひやりとした感触が少女の額に触れた。

「ねえ、イーノック。わたし、無事よ。だいじょうぶ。どこも痛くなくて、元気なの。あのときは守ってくれてありがとう」

 たどたどしく喋るナンナの背中を、大天使は薄目で眺めている。

「わたし、イーノックが独りぼっちだと思って来たの。わたしの勘違いだったのね。天使様がいらっしゃるのなら、あなたもきっと良くなるわ。ねえ。毛布も、白湯もあるの。金持ちの家からくすねてきたのよ。欲しくなったら、すぐに言ってね」

 言いながらナンナは頬擦りをした。珍しい祈りの形だ、と天使は思う。それでもあれが少女にとって一番しっくり来るのだろう。彼女の横顔に聖母の影を見て、ルシフェルは人知れず口端を引き上げた。

 良かったじゃないか、イーノック。
 赤い目で青年を見やりながら、声を出さず唇を動かす。
 いつぞやの女豹とは違って、この少女はお前を害さないよ。

「天使さま」

 気が済んだのか、ナンナは水晶から身体を離した。ふんわりと、野の花のように笑う。

「天使さまも、まだしばらく待つんでしょう? わたし、行きがけにお茶の葉を貰ってきたの。淹れるのなら一人分も二人分も、そう変わらないわ。一緒に飲みましょう」
「なるほど。悪くないな」

 ルシフェルは可笑しそうに口元を覆うと、その場に腰を下ろす。

「頂くよ」

 顔全体をほころばせて、ナンナがはしゃぐ。茶の葉を揉む両手は紅葉のように小さい。それでも彼女が懸命に揉むのだ、味が悪いはずはない。幼い聖女が淹れる茶を、大天使も少しばかり期待している。
 ルシフェルはもう一度、彼方の空を眺めた。太陽はあれから数ミリしか動いていなかったが、先程よりは確かに傾いている。心なしか動きも早い気がした。こうして待っていれば、じきに夜が来るのだろう。夜が来て、朝が来る。なんて均等な恵みだろう。天使はイーノックの心臓を思った。とくん、とくん。鼓動は今も、一定のリズムを刻み続けている。









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