君とい舌



 君はよく食べるなあ、と天使が感心した声を出したので、青年はどことなく気恥ずかしく感じて木匙を置いた。樫の簡易テーブルの上で、温かいオートミールはほこほこと湯気を立てている。碧い両目を伏せたイーノックの顔を覗き込んで、他意のない大天使は小首を傾げる。

「っと、なんだ。もう食べないのか」
「その――すまない、浅ましかっただろうか」

 ルシフェルがぴくりと片眉を吊り上げる。

「浅ましい? 何のことだ」
「私の食べ方が意地汚く見えたかと」
「いいや。むしろ、どちらかといえば清々しいよ。君は食べ残さないからな。躾がいいんだろうさ」

 赤い目の男は臆面もなくそんなことを言ってのける。今度は別の意味でくすぐったく思いながら、書記官はぽりぽりと頬を掻いた。胡坐を組んだ膝の上には幼い少女の頭がある。眠りこけるナンナの髪に褐色の指を入れ、そうっと梳(す)いてやりながら、イーノックは再び木匙を取った。ナンナはすうすうと安らかな寝息を立てている。
 オートミールはろくな味付けもなく、白湯で不器用に煮込まれただけだ。上に降り掛けた僅かな塩の味だけで、青年はこれを皿に三杯は平らげる。これがまた、さも美味そうに食べるのだ。
 ナンナはこのオートミールを、たとえば木苺のジャムだとか、山羊の乳だとかと一緒に食べる。それでもあまり好んでは食べない。いつも子どもらしい偏屈さで、まるで鳥になった気分、それだけ言って仕方なさそうに口へと運んでいる。
 ふむ、と大天使が顎に手をやった。

「なあ、イーノック。物は相談なんだが」

 麦粥を詰め込んでいた青年は、視線をついと彼に向ける。意外にもルシフェルの表情は神妙だ。

「それ、オートミールとか言ったかな、良かったら私にも一口くれないかい」

 きょとんと目を丸くするイーノックの前で大口が開けられた。んあ、とみっともなく口を開いてルシフェルは一口が差し出されるのを待っている。
 青年は天使が食事を摂るのを一度たりとも見たことがなかったので、この申し出には大層驚いた。

「あなたも食事を摂ったりするのか」
「必要はないが、味覚が無い訳じゃない。興味が沸いたのさ。君達の食事はどんな味がするのか、ね。麦には血が流れていないから、私でも食べられる」

 とことん真剣な様子で大天使が言うので、構わないが、と言いながらイーノックは木匙を差し出した。薄い唇の内側へ突っ込むとパクリと咥え込み、それから一丁前に咀嚼が始まる。

「オートミールを食む天使なんて聞いたことが無い」

 無骨な青年は珍しくも面白がっているようだった。
 咀嚼はそのまま暫く続き、やがてごくりと嚥下される。喉仏を軽く上下させて、オートミールをすっかり収めてしまうと、彼はまるで一仕事終えたような表情を浮かべた。

「ああ、やはり駄目だ」

 どこか寂しげなその面持ち。

「かろうじて塩気は分かるが、美味いかどうかまでは分からない。私には食欲が備わっていないのだから、当然と言えば当然だが」

 それでも君達の気分に近付けるかと思ったんだがなあ。男の瞳はガーネット色に揺れる。
 イーノックはようやく天使の心に気付いて、すると途端にきゅうと喉が詰まるようだった。ナンナの目が見えないように、彼の舌も閉じているのだ。感覚を共有できないとはなんと物哀しいことだろう。

 書記官は金の睫毛を瞬かせて、彼の悲しみを想った。しかし、彼ははたと思いついた。それは素晴らしくいい思いつきに思えた。
 閉じているのならば開いてやればいいのだ。
 木匙にオートミールを一杯掬い取ると、イーノックは自ら頬張ってみせる。むぐむぐと必死に咀嚼しながら考えを巡らせて、ゆっくりと言葉を紡ぐ。

「……麦粥自体に、これといった旨味は無いんだ。けれど、塩の粒に当たると花開いたように感じて、ちょうど舌の裏当たりかな、まったりと手触りの良い狐の毛並みを撫でたような気持ちになる。
 木苺のジャムを入れたときはもっと素敵だぞ。足の綺麗な女神を前にした気持ちだ。もしくは、氷膜の張った湖に手を入れるイメージだ。きゅうと酸っぱくて、甘い」

 言葉は巧く無かったが、天使には十分だった。思い掛けない青年の表現にルシフェルは寸刻ぼうっとして、それから、それはそれは美しく笑う。

「なら君も木苺のジャムを入れるべきだな、節制君」

 赤い舌で唇を舐めながら、ルシフェルは欠片も悪びれずに言った。









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