「分かった。祝福が欲しいんだな? ほら、与えてやるから膝を折れ」

 ルシフェルは腹を括ったように顔を上げ、指で地面を示した。祝詞など久しく唱えていないが、この男を満足させることくらいはできるだろう。ちょいちょい、と人差し指を蠢かせると書記官は期待に満ちた表情で跪いた。熱っぽい碧眼が大天使を舐めるように見る。
 彼は膨大な記憶の海からどうにかして賛美の言葉を引き上げようと試みて、暫くの間固く表情を強張らせていた。だが刹那の後、ようやく天使の眉間がふっと和らぐ。
 ルシフェルは敬虔な信者の頭上へそっと手をかざした。

「――『主が汝を祝福し、汝を庇護の眼差しで見守られるよう』」

 謳うような甘い声が周囲に響き、増幅する。たとえようのない心地良さを覚え、イーノックは自然と目蓋を下ろした。
 これが天使の祝福か。

「『主が汝に御顔を輝かせ、汝を恵まれるよう。
  主が汝に御顔を上げ、汝に平安をもたらさんことを』」

 アーメン。
 イーノックは祝詞が終わってからも目を瞑り続けていた。夢心地にうっとりと全てを委ねながら、その先に訪れるであろう“素晴らしい恵み”を待ち望んでいたのだ。
 ずいぶんと長い時間身動きすら取らずにいた男は、徐々に自らの心臓の音が聞こえ始め、やがて呆気なく現実世界へと戻ってきた。それ以上の奇跡は何も起こりはしなかった。純粋な疑問の念と共にイーノックは面を上げる。
 目の前に立つルシフェルは既に興味を失ったような面持ちで、さも退屈そうに重心を踏み替えていた。書記官は急に地についた膝が痛むような気がした。

「ルシフェル」
「なんだ、祝福は終わったぞ。満足しただろう?」

 ふんぞり返って胸を張る大天使はどこか自慢げだ。達成感すら覚える笑顔だ。
 対して哀れな男は苦虫を奥歯で噛み潰したような表情を浮かべる。彼はその生涯において人を嘲るようなことはなかったが、この時ばかりは腹の中で針金が絡まったような気分だった。いや、天使に罪はない、欲望を持つのは人間の方なのだから、そんな風に自らへと言い聞かせながら。
 書記官はかつて下界で受けた教えを思い出す。幼き頃母が言っていたはずだ。天使は口付けをもって人を祝福して下さるのだ、と。
 祈るような気持ちのまま、イーノックは腰を上げた。膝に食い込む砂利を指先で払う。

「ルシフェル、その、願わくば違う祝福を」
「強欲は罪だぞ」

 反射的に押し付けられた言葉に、イーノックは面食らって小首を傾げる。見ればルシフェルの薄い唇に、小悪魔的な笑みが潜んでいるではないか。放たれた言葉の意味を何度も反芻する。
 やがて男の鈍感な頭にも一つの答えが厳かに与えられた。
 ルシフェルは挑戦的にイーノックを誘い続けている。

 ルシフェル、と再び彼は天使の名を囁いた。高熱に浮かされたような声で、ふらふらと目の前の大理石像へと吸い寄せられていく。大天使はつんと眉を動かして、イーノックの腕を甘んじて受け入れた。男の腕が細い腰を捕らえる。
 堪え切れなくなって、イーノックは思わず表情を崩した。

「さあ、もう一度祝福してくれ」
「嫌だと言ったら?」
「そうだな、無理矢理にでも奪おう」

 性急な動きで書記官は天使へ溺れ落ちた。唇越しに激しい祝福を与えてやりながら、ルシフェルはこっそりと誇り高き笑みを見せたのだった。




天使の恵み
ああ、愚かな男よ!

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