「余計な知恵をつけたな、イーノック。
 さすが天界一の書記官だ。その知的好奇心には尊敬の念さえ覚えるよ」

 仰向けられた手の平をぱしんと弾く。書記官は目玉が零れ落ちそうなほど大きく目を見開いた。きょとんと呆けた表情はどことなくあどけない。だが、その表情も見る見るうちに下降していき、遂には不安げな困惑の色となった。おどおどと、図体に似つかわしくない擬音を交えて両腕が引っ込められる。

「あの……私は何か君の気に障るようなことをしただろうか」
「いいや。厳密に言うなら君のせいじゃない。だが、忠告はさせてもらおう。
 君は、即刻、付き合う相手を、変えるべきだ」

 幼い子供へ言い聞かせるように、ルシフェルは人差し指を突きつけた。イーノックは微かに仰け反り唸り声をあげる。それから、がっくりと肩を落とした。もし彼に獣の耳が生えていたとすれば、さぞ見事な垂れ具合を見せたことだろう。
 荘厳な大天使は暫くの間神経質に腕を組んでいたが、うな垂れた青年の姿を見ているうちに何故だか胸中が騒ぎ出すのを感じた。つい先程まで凛と差し出されていた彼の両腕は今やだらりと無気力にぶら下がっている。この世の終わりのような顔をして俯く男のシルエットはどこか同情を誘う。居心地の悪さにルシフェルは頭を掻いた。
 そこまで落ち込まなくとも良いだろう、この卑屈人間め。
 だが、何度自問したところで心はこう返すのだ。ルシフェル、お前の物言いが厳し過ぎたのだ、と。
 たっぷりと時間を掛けた後、大天使は情愛をもって目の前の男へ注意を向けた。柔らかな声色を取り繕って切り出す。

「そうだ。君の言う通りだ。何せ今日はハロウィンだからね」

 イーノックはしょぼくれた顔をゆっくりと上げ、盗み見るように彼を見た。

「“ハロウィン”?」
「未来の人間が作り出した、死者を弔う祭りのことだ。
 だから神の恵み云々は、おそらく君の勘違いか聞き違いだろう。
 君は話を聞かないからな」
「では、“トリック・オア・トリート”とは何なのだ」
「あれは」

 饒舌に語ろうとしたルシフェルの口がはたと止まる。菓子を差し出さねば悪戯を受けるというユーモアに富んだ理不尽さを、果たしてこの堅物男が納得してくれるだろうか。理解されもしない話をつらつらと述べるのは苦手だった。生来真面目な青年は知的好奇心に富んだ瞳でこちらをじっと見ている。話の続きを促すように。
 どこをどう解説すべきかうんうんと頭を捻りながら、赤い目の大天使は首を傾げた。

「その、つまりだ。恵みを求める者が口にする決まり文句のようなものだよ」

 その説明に、ああ、とイーノックは安堵の破顔を見せる。

「なんだルシフェル、私は何も間違ってはいないじゃないか。
 神は恵みを求める者にすべからく御慈悲を与えているだろう」

 この男はまごう事なき『神バカ』だ、とルシフェルは失笑した。どこまで盲目的に神を崇拝しているというのだ。いたく感激したように神への賛美を始める男を嘲るように見ながら、ルシフェルはふとある矛盾に気づいた。それに気付いた途端、大天使の口端に人の悪い笑みが滲み始める。
 ほう。成る程、面白い。
 ルシフェルは揺らめくように身を乗り出すと、さも親しげにイーノックの肩を真正面から掴んだ。

「つまり、君は祝福に飢えている、ということだな」

 驚いたように、心外そうにイーノックが息を呑む。

「そんな、私は一度も」
「哀れな男だ。神に一番近い位置にいながら、その身に恵みが足りぬとは。
 しかし私も神の御使い。求められただけの恵みを君に与えよう」

 ひょい、と軽々青年を抱えた天使は純白の翼を陽の下へ曝け出す。そのまま天高く飛び上がった彼はちろりと犬歯を覗かせて、甘い囁きを漏らした。

「一晩中ね」

 イーノックはぽかんと口を開けたまま、神の御使いに悠々と攫われていった。




天使の恵み
求めよ、さすれば与えられん!

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