真珠が樹になっている。
 滑らかな光沢を持つ真珠はてらてらと輝きながら枝にぶら下がっている。誰かが故意に結び付けたのかと思って枝葉を揺らしてみれば、やはりそれは文字通り『生(な)っている』のだった。
 青年はそっと指を伸ばし、光る果実を爪で突く。かつんと硬い音がした。
 エデンの園には珍しい果実が生ると聞いたことがある。人間が見たことも、口にしたこともないという果実が。それらは舌上に乗せられた瞬間、至上の悦びをもたらすという。
 絢爛豪華な実を前にして、青年はごくりと生唾を飲み込んだ。この真珠のような果実はどのような味がするのだろう。甘いのだろうか、それとも酸っぱいのだろうか。未知なる存在は男の知的好奇心をいたく刺激した。こつん。こつん。
 ごほん、と斜め後ろに立っていた妙齢の女がわざとらしく咳払いをした。

「イーノック様。そろそろ宜しいでしょうか」

 投げられた口調に微かな苛立ちを感じ取り、青年は肩越しに振り返る。クリーム色の天衣を目深に被った女はイーノックの視線を受けると、すうと静かに目を伏せた。

「すみません」

 機嫌を損ねてしまっただろうか。青年は伸ばしていた手をおそるおそる引き戻す。真珠同士が触れ合ってちりちりと鈴のような音を奏でた。何とも心地良い響きではないか。
 イーノックはへらりと笑う。

「天界に住まう生き物は美しいのですね。このように素晴らしい植物は今までに見たことがない」

 嬉しげな彼の言葉にはさしたる興味も見せず、女は事務的な態度で淡々と答えた。

「ここは神のお膝元ですから。
 さあ、参りましょう。皆が待っています」


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 イーノックがそれ以上何かを尋ねるより早く、天使の指がパチンと鳴らされた。その瞬間、波は揺れるのを止め、冬の空気は温度を失い、人間の青年の追及も止んでしまった。
 時の流れが堰き止められた空間で、ルシフェルはそっとイーノックの頬を撫でる。触れられてもイーノックは微動だにすることはない。

「運命の流れに翻弄される人間、か」

 つうと指が頬から目元へ。見えていない目を閉じさせれば、時の止まった世界でルシフェルを見る者は誰もいなくなる。
 それでも人目を忍ぶように小さく、小さく呟く。
 今度はお前が選択する番だぞ、イーノック。
 天使はばさりと羽根を広げる。十二枚の翼を持った、闇夜に巣食う漆黒の大天使。ルシフェルの翼は世界の頭上へ天蓋のように広がる。羽根の隙間から星々がちらちらと垣間見え、その姿は美しい宝石を纏ったようだった。



 はたと気付くと、古びた木の香りに包まれていた。瞬きひとつにも満たない短い時間の後だった。我が身に何が起こったのか理解が至らず、イーノックは呼吸をすることすら躊躇った。
 自分は海の中央に浮かぶ岩場で、ルシフェルと二人で話し込んでいたのではなかったのだろうか。錆び付いた首回りをじっくり動かし、書記官は辺りの状況を確認する。それともあれは、まさか夢?
 ランプの油は残り僅かになり、おぼろげな光を鳥の透かし柄に預けている。火を灯したまま外へ出てしまったのだろうか。最後に見た空には確か朝靄が掛かっていたはずだ。しかし、一晩中ランプを灯したままでいたにしては油の減りがやけに遅い。気になって、イーノックは首を傾げる。
 部屋にルシフェルの姿はなかった。扉を押し開け、天界に広がる空を見上げる。
 青年は目を丸めた。外はまだ暗く、朝の訪れは程遠く思えた。彼は狐に抓まれたようになって、ぽかんと紺色の空を眺める。その色はルシフェルと家を出る前の色と何ら変わらない。
 ドアノブに手を掛けたまま、イーノックは思案する。やはり、あの時間は夢だったのだろうか。天使の秘密を求める己の心が見せた幻だったのだろうか。
 違う、と彼は思い直す。何故なら彼が開けた扉からは、ギイと軋む嫌な音が消えていたからだ。溜まったままの仕事を頭の片隅で思いながら、白く輝く神殿を見た。
 ルシフェルはどこへ行ってしまったのだろう。




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