もうなにも言わなくていいよ 天 <しりお> 6P-9P冒頭
もうなにも言わなくていいよ 天 <しりお> 21P末尾-24P冒頭

もうなにも言わなくていいよ 地 <タマミヤ> 58P-60P
もうなにも言わなくていいよ 地 <タマミヤ> 128P-131P







もうなにも言わなくていいよ 天 <しりお> 6P-9P冒頭


 羊皮紙の束に目を落としながら、男は黙々と手を動かしていた。静まり返った部屋に響くのは、羽根ペンの先が紙を削る音だけだ。モノクル越しに見える瞳は落ち着き払っている。その瞳のせいか、彼はその外見の若さに反して、どこか老成しきった雰囲気を醸し出していた。
 ペン先が紙のささくれをとらえた。羊皮紙に穴を穿ってしまいそうになり、彼はようやくその手を止めた。
 モノクルを外し、ゆっくりと目頭を押さえる。

「精が出るじゃないか、イーノック」

 ゆらり、と。
 陽炎のような気配を察して、書記官は肩越しに振り返った。
 扉の前には、黒髪の男が立っていた。薄手のシャツを羽織り、飄々と重心を傾けている。すらりと伸びた脚に、ヴィンテージ物のジーンズ。そして、柘榴石のような瞳。赤い目をした大天使はコツコツと音を立てながら、イーノックの元へと歩み寄る。

「あまり根を詰めるなよ。お前は加減を知らないから」

 ルシフェルは口端を僅かに引き上げて、微笑みの形を作ってみせた。

「書記官仕事の引き継ぎか?」

 そう言う砕けたルシフェルの声色に、イーノックもつられて頬が緩む。
「もう少しだから待っていて欲しい」と言うと、ルシフェルは「気の済むまで」と言って、呆れたようにまた微笑んだ。
 イーノックは机に向き直り、ゆったりとした大きな動作でもう一度モノクルをかけた。目を瞑り、深い呼吸をひとつ、ふたつと繰り返す。
 ぱちりと目を開けたその顔にルシフェルに向けた淡い微笑みはもうなかったが、その瞳からすっかり疲れの色は消えていた。イーノックは慣れた動作で羽ペンを取る。
 書き付けるペンの先は先程よりも軽やかに羊皮紙の上を滑った。太い線はくっきりと、それでいて滲まないように手早く。細い線は滑らかに、最後までそのインクが掠れることなく丁寧に。
 ルシフェルが訪ねてくる前と来た後でイーノックの筆跡は、別人のように変わっていた。顔に出なくとも、ルシフェルの訪問に文字が浮かれている。
 天界に召し上げられる人間など、滅多にあるものではない。天使はイーノックをどこか遠巻きに見ていたし、イーノックも天使には憧れと畏敬の念を払って接した。
 イーノックに積極的に話しかけたのはルシフェルくらいのものだったし、その逆に大天使ルシフェルと気負わず会話出来るのも、ほんの一握りの『特別』だった。

「かわいいものだ」

 まるで愛玩用の犬。
 隠そうにも隠せない明け透けなイーノックの好意に、ルシフェルはやや冷やかすようにそう言ったのだが、早く終わらせよう時間を作ろうと、熱心な瞳のイーノックには聞こえなかった。


「すまない、待たせた」

 イーノックが心底すまなそうに口を開いたのはだいぶ後のことだ。

「貴重な経験だったよ。人を待たせるのは慣れているんだけど」

 私はもっとアークエンジェルたちの気持ちを考えてやるべきだなあ、あいつらには可哀想だったなあとルシフェルがこぼすと、イーノックはぎょっとして、やっと聞き取れるくらいの小声で「すまない」と言ったきり、なにも話さなくなってしまった。 心なしか一回り小さくなったようにも見える。
 顔を覗けばイーノックの眉はハの字になっていて、今にも後悔に懺悔しそうだ。
 その様子に流石の天使の良心も咎めて「冗談だ、退屈ではなかった」と伝えると、純粋で朴訥な書記官は気恥ずかしそうに「からかってくれるな」と言った。



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もうなにも言わなくていいよ 天 <しりお> 21P末尾-24P冒頭


 人が一人通れるかどうか。そんな道がいくつも入り組む住宅街を抜け、イーノックはそれと悟らせないように人通りの少ない方へ誘導する。
 つけてきた男を袋小路に追い込む。
 路地を囲む家々の塀は、見上げるほどに高く、これならそうそう逃げられない。
 人目のないのを確認してから、イーノックは唐突に足を止めた。
 間髪入れずに問う。

 「私をつける、理由は何だ? 誰から頼まれた」

 ――――シャン、
 良く打たれた刃の音。返答の代わり、相手は短刀を抜いた。
 抜き身の刃を携え、じりじりと間合いを詰めてくる。
 あからさまに向けられる殺気。

「……どうして人間と争わねばならない、」

 ポツリ。
 誰に聞かせるでもなく、イーノックは呟いた。無論、男の耳には入っていない。
 頭を覆う布に隠れ、イーノックの表情は見えない。
 イーノックは振り返りざま、買ったばかりの発酵酒を袋ごと男の顔にぶちまけた。

「がっ……!?」

 強い酒気が相手の目を焼く。
 辺りにはアルコールと、ヤギの乳の甘ったるいのが混ざった香りが広がる。
 男がたまらず目を抑えたその隙をついて、イーノックは腰を落とし、上体をひねり、鋭く相手の足元に蹴りを入れる。膝を壊す目的で放った低い軌跡は、男がよろめいたことですんでのところで外され、イーノックの足は何もない宙を蹴った。
 ヒュッ、
 鋭く空気が活断される。

(素人だな)

 男が抜いた短刀には見覚えがあった。
 さっきの奴隷――――装飾品店にいた用心棒。
 足枷をはめたまま、主を置いて出てきたのだろうか。褐色の顔には、灰色の目玉が二つはめこまれていて、それがなにか、計るような静かさでイーノックに向けられている。
 妙だとは思わなかった。

「―――――――――――ッ!!!」

 次の瞬間、男はイーノックめがけて踏み込んだ。
 声にならない呻き声をあげながら、右に、左。めちゃくちゃに短刀を振り被る。
 イーノックは構わず間合いを詰める。瞬きよりも速く。
 辻風のように懐に潜り込むイーノックに男はおののく。
 刃の切っ先が僅かにぶれた。
 そのまま狙いは外れて、イーノックのフードを袈裟掛けに切り裂く。
 曝け出されたイーノックの金髪が、傾きかけた陽の光を反射する。
 琥珀色の陽光が褐色の輪郭をなぞる。空の青を溶かし込んだ瞳は、焦りの色を滲ませていた。
 だが、焦りは戦闘に向けられたものではない。この男に知る余地も無いが――――

「何故私を狙ったのか分からないが、」

 男の手首を高速で払う。その衝撃で男の短刀が飛んだ。
 武器を失った利き腕を素早く脇に挟み込む。同時に、息を飲む流麗さで男の足を払った。拍子に男は腰から地面に落下する。
 イーノックは男の耳元に囁く。
 申し訳なさそうに、どこか泣き出しそうな声色で。

「――――――すまない。」







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もうなにも言わなくていいよ 地 <タマミヤ> 58P-60P


 羊皮紙の束に目を落としながら、男は黙々と手を動かしていた。静まり返った部屋に響くのは、羽根ペンの先が紙を削る音だけだ。モノクル越しに見える瞳は落ち着き払っている。その瞳のせいか、彼はその外見の若さに反して、どこか老成しきった雰囲気を醸し出していた。
 ペン先が紙のささくれをとらえた。羊皮紙に穴を穿ってしまいそうになり、彼はようやくその手を止めた。
 モノクルを外し、ゆっくりと目頭を押さえる。

「精が出るじゃないか、イーノック」

 ゆらり、と。
 陽炎のような気配を察して、書記官は肩越しに振り返った。
 扉の前には、黒髪の男が立っていた。薄手のシャツを羽織り、飄々と重心を傾けている。すらりと伸びた脚に、ヴィンテージ物のジーンズ。そして、柘榴石のような瞳。赤い目をした大天使はコツコツと音を立てながら、イーノックの元へと歩み寄る。

「あまり根を詰めるなよ。お前は加減を知らないから」

 ルシフェルは口端を僅かに引き上げて、微笑みの形を作ってみせた。
 イーノックは静かな視線を大天使へと注いだ。それが、寡黙な青年なりの返答であるようだった。天使は少しだけ目尻を下げる。彼の様子を見ながら、ルシフェルは知らず知らずのうちに胸を押さえていた。
 頭をよぎるのは、あの長い旅での出来事――。



 パチパチと枝が爆ぜる音がする。オレンジ色の照り返しを受けながら、イーノックは膝を抱えていた。面持ちは暗く、晴れなかった。肩は重く、腫れぼったい。
 イーノックは疲労困憊していた。
 この旅は、一本道だ。脇道もなければ、獣道もない。あるのは完璧に整備された、運命という名の一本道だけだ。その事実がやたらと重くのしかかってくる。
 何度目かの溜め息をつく。それから彼は深く息を吸い込んだ。焚き火に燻された空気が肺いっぱいに入ってきて、イーノックは思わずむせ返った。

「まるで百面相だな」

 不意に声を掛けられ、青年はそちらへ目をやる。先ほどまでは誰もいなかった隣に、天使が何食わぬ顔をして座っていた。若干の驚きを込めて、彼の名を呼ぶ。

「ルシフェル」
「火の勢いが弱いぞ。もっと薪をくべろ」
「あ、ああ」

 ルシフェルは我が物顔で肘をついている。促されるがまま、書記官は焚き火に薪を放り入れた。しかし、どうやら薪は乾ききっていなかったのか、たちまち黒い煙を吐き出し始める。
 二度もの不意打ちを喰らって、イーノックは慌てふためいてしまった。

「仕方のない奴だ」

 ルシフェルは唇を尖らせると、ふう、と息を吹きかける。
 天使の芳しい吐息が焚き火に掛かる。すると、あれほど黒い獣のようだった煙が、みるみるうちに鎮まっていく。炎が元通りに治まるまで、そう時間は掛からなかった。
 再びパチパチと枝が爆ぜ出したのを見届けてから、ルシフェルが振り向く。

「気を付けろ。生木を無駄に消費するな」
「す、まない。この階は常に湿っているから、未だに乾燥の加減が分からずにいて」
「とは言え、かれこれふた月はここにいるじゃないか。火を熾すたびにこれでは、さすがの私も付き合いきれないぞ」



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もうなにも言わなくていいよ 地 <タマミヤ> 128P-131P


 パチン!

 待ち構えていた指を鳴らされた。軽快な音が響き、全ての時間がぴたりと止まる。
 ルシフェルはのんびりと足を踏み出した。飄々と宙を歩いて行く。固まった空気を足場にして、いとも容易く書記官の元へ。
 大天使はイーノックの傍らにしゃがみ込むと、青年の顔を覗き込んだ。宙吊りにされたままの彼は、穴へ落ちていく恐怖を堪えようと、固く目を瞑っていた。
 彼は空中に腰を降ろすと、胡座をかいて頬杖をついた。

「……」

 目の前に浮かぶ逆さ吊りの顔を、まじまじと眺めてみる。

「……阿呆面だな」

 ルシフェルはタロットカードの絵柄を思った。
 コツコツ。いたずらにルシフェルは青年の鼻を突ついた。まったく間抜けな顔をしている。くしゃくしゃに寄った皺は愉快だし、半開きの口も滑稽だ。イーノックは普段が寡黙なので、それも余計に可笑しかった。調子を良くして、もう一度。そのとき己の口元が緩んでいたことに、天使はちっとも気が付かなかった。
 ああ、仏頂面より余程ましじゃないか。くつくつと声を抑えて笑う。普段のイーノックも、これだけ表情豊かであればいいものを。
 そうすればもっと――もっと?
 そう思った途端、じわじわとあの熱がぶり返してきた。寄せては返す波のように、ルシフェルの胸が拍動を始める。その上今回は、あろうことか痛みまで生じたではないか。大天使は顔を歪めて、自らのシャツの前ボタンを外してみた。
 胸部の中央。見ればそこには、微かな火傷の痕が広がっている。

「何だ、これは」

 息を呑む。ルシフェルの白い肌に、火傷の痕はあまりに目立ち過ぎた。
 原因は分からない。分からないが、おそらくこの男のせいだ。今回でそれだけは確信が持てた。不穏な予感を感じて、ルシフェルは彼から顔を離した。
 逆さ吊りのイーノックの首根っこを掴み、大天使は見えない階段を降り始めた。硬直した青年の身体をずるずると引き摺り下ろしていく。彼はできるだけ何も考えないようにしながら、淡々とイーノックを運んだ。
 跳び出す前の足場へ戻り、書記官の向きを直してやる。すなわち、頭は上へ、足は下へ。両目は変わらず瞑られたままだったが、この際構ってはいられない。ルシフェルはイーノックを再び立たせると、パチン、と慌ただしく指を鳴らした。
 時が動き出す。

「うっ! ……う、ん?」

 落下を覚悟していたイーノックが踏み締めたのは、自分がついさっき飛び出したはずの床だった。青年は自分の足が本当に地面についているのか、もう一度入念に確かめてみる。それからほっと息を吐くと、ルシフェルの方を顧みた。

「ああ、あなたか……すまない、助かった」

 へら、と笑う。実に気の抜けた苦笑だ。黒髪の天使はそれとなく目を逸らしながら、気にするな、といったようなことをごにょごにょと呟いた。彼の言葉の切れの悪さに、イーノックは気付かない。

「ガーレは厳しいな。アーチを貰っても構わないだろうか」

 書記官はあくまで先だけを見ている。
 ルシフェルは内心の焦燥をひた隠しながら、言葉少なに知恵の実を差し出した。青年はガーレをアーチに持ち替える。滑らかな持ち手の感触が安心感を呼び起こす。

「今度こそ渡ってみせる」
「ああ」

 大天使は端的に答えながら、己の足をついと引いた。

「お前は大丈夫そうだし、私は遠くで見ているよ」
「? 分かった」

 ルシフェルの気まぐれはいつものことだ。イーノックもさして疑問に思うこともない。天使はくるりと背を向けて、すたすたと歩き出した。
 イーノックは再び、床を蹴って跳び出す。今度の跳躍はうまく行った。
 重力がアーチの力で掻き消され、ふわふわと浮かんでいく。
 ルシフェルはといえば、青年から離れた場所にある壁際へと背を預けた。振り返ってみると、ちょうどイーノックが無事に穴を渡り終えたところだった。
 青年はこちらへ感想を求めるような眼差しを投げてくる。嬉しそうに反応を待つ姿は、まるで忠犬だ。天使は急ごしらえの笑みを貼りつける。腕を上げ、ひらひらと手を振ってやる。それだけでイーノックは満足して、再び前を向き直った。
 腕を下ろし、ひとり息をつく。胸は未だひりひりと傷んでいる。

「弱った」

 ルシフェルは独りごちた。尊大な彼には似つかわしくない、困り果てた声だった。



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