そいつが天使でないことは一目でわかった。やけにささくれた髪をしていたからだ。と言うのも、何せここは楽園だからね。恵みの雨は降れど、埃にまみれた砂の香りはしない。
金糸のごとく流れるような――などという表現とは程遠い、かさついた金髪がなびいている。吹いているのは神の息吹だ。
そして新緑の中でひと際目立つ、彼の碧い瞳。
「知恵の樹が珍しいのか」
声を掛けると、男は振り向いた。頑丈そうな体格の割には穏やかな目をしている。馬の瞳だ、と私は思った。いつだか神の庭で見掛けて、馬と名付けた生物の瞳に似ている。私は枝葉を指差した。波打つようにさざめく木の葉の間から垣間見えるのは、艶やかに実ったワイン色の果実。
「ほら、見えるだろう? あれがその昔、アダムとイヴが口にした禁断の果実さ。今でも彼らが触れた跡が、幹に火傷となって残って……ああ、こら」
話しているそばから果実に手を伸ばそうとしている彼に、私は思わず制止の声を投げた。びくっ、と怯えたように指先が引かれる。だが、その拍子に彼の爪が枝先の木の葉を一枚掠めたようだった。
みるみるうちに葉は萎れ、茶色く変色を起こす。そして遂に、枝からかさりとその身を投げた。
「す、すまない」
バツが悪そうな表情を浮かべて彼が謝る。その謝罪は自らが散らした葉に対してか、もしくは忠告した私に対してなのか。
そうか。
この男か。
私はといえば目の前で起きた出来事に内心大層驚いていたのだが、まるで何でもないことのように装ってみせた。すなわち、肩をひとつ竦めてみせて、
「気にするな。寿命を迎えただけだ」
「寿命? しかし……」
戸惑った様子の彼にすいと近付く。足音もなく知恵の樹に寄る姿は我ながら蛇さながらだ、と思うと少し愉快に思えた。
近寄ると男は僅かに身じろいで、私の顔をおそるおそる見上げた。その視線を極力受け流して、宙ぶらりんになっていた彼の手を掴む。やはり微かに砂の香りがした。
「ほら、君の手のここに小さな傷があるだろう。知恵の樹は君の血に反応したんだ。
知恵の実は人間に寿命を与えたが、逆もまた然り、ということさ」
握っていた手首を解放してやると、彼はまじまじと自らの掌を見つめ始めた。予想以上に素直な反応が可笑しくて、喉奥がくつくつと鳴る。
「しかし、驚いたな。まさかエデンの園に生身の人間が立つことになろうとはね。こんなに驚いたのは何万年振りかな」
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「私はね」
出来る限りの醜悪な表情で、私は手首をこきりと鳴らした。
「君達人間が大嫌いなんだ、イーノック」
「君は――、いや、君がそんなことを言うはずがない。何かに操られているのか?」
私は喉の奥をくつくつと鳴らす。音にならない笑いは薄暗い闇の中を飛び回り、反響しては増幅する。
「正気に戻れ、ルシフェル! こんなことは清らかな君がすることでは」
「清らか? 私が?
……正気になるのは君の方だ」
私は息を大きく吸い、背中へ意識を一点集中させた。ぱりぱりと重なっていた羽根同士が剥がれる音がする。そのまま力を込めると、背中の皮膚がめりめりと突き破られた。肩甲骨の辺りから大きく翼が広がる。
ばさり。
辺りに小さなつむじ風を起こして、私の両翼は遂に全てを露わにした。一枚一枚が空気を吸って柔らかく膨らむ。イーノックは私の翼を目にした瞬間、がち、と震えで歯を鳴らした。
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