天使はいつも音もなく隣に立っている。声を掛けることはない。黙ってひぅそりとその場に立っているだけだ。だから青年も気付くことはない。ただ暫くすると、陽だまりに寝転がる猫の匂い、あるいは夜空を切って飛ぶ鷲の匂いがし始める。
 そこでイーノックは初めてはたと気付き、書きかけの羊皮紙から顔を上げるのだ。するとそこには深紅の瞳が二つ並んでいる。

「ルシフェル」

 イーノックは声を弾ませ、この突然の来客を歓迎した。天使はふらりと腕を上げる。

「やあ、参ったよ。今日の君に会いに来るつもりが、着地点を間違えてしまった。五万年前の君は今よりもっと泥の匂いが強かったな」
「あなたは方向、いや、時間音痴だから」
「失礼だな。そう言ってくれるなよ。
 第一、君達人間の尺度で測るからそうなるんだ。宇宙空間に上下がないように、春と秋に貴賎がないように、私の時間感覚に新旧はない。
 五万年、結構じゃないか。君もそう変わらなかったさ」

 お得意の長々とした講釈を、青年は軽く首を傾げただけでいなす。天使の高尚なる言い訳にはもういい加減慣れていた。どうせ彼だって本気で言っている訳ではないのだ。
 その証拠にルシフェルは彼のそんな態度を気にする素振りもなく、飄々と傍らの椅子へと腰を下ろす。ちょいと片手の平を振り、青年の作業の続きを促した。

「さ、五万年前と同じく仕事へ励むがいい」

 イーノックは放たれた皮肉へ小さく笑い、再びインク壺から羽根ペンを取り出した。ペン先から滴る墨を切り、すいと羊皮紙へ滑らせる。天界の紙の滑らかさは素晴らしい。なめし方が良いのだろう。
 紙の表面に几帳面な字が並んでいくのを、大天使は大人しく眺めている。邪魔をすることもなく、気を惹こうとすることもない。イーノックは己の業務に集中しながらも、先程ルシフェルがぽろりと零した言葉をぼんやりと反芻していた。

 五万年、結構じゃないか。君もそう変わらなかったさ。言いながら、しかしルシフェルはここへ来た。暗に今の自分を認めて貰えた気がして、青年はどうにも笑みが抑えられないのだった。

 彼の作り出す報告書は誤りも少なく美しい出来に仕上がる。その分、イーノックの筆は決して速くはないが、それらが完成する過程を大天使は急かすこともなく静かに見つめている。
 イーノックと出逢ってから、ルシフェルは自分が過ぎていく時間を待つのが巧くなった気がした。たとえば黒パンが焼かれる一時間を、今では彼の隣で本でも読みながらぼうっと待つことができる。
 安易に己の指を鳴らさなくなったのは、果たして良い変化なのだろうか。天使には判断できなかった。


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 大天使は地上から持ち込んだ分厚いレシピ本のページをぺらりと捲る。料理自体をしたことはないが、人間がしているのを見たことは何度でもある。手先は器用な方だ。こうして指南書もあることだし、見よう見真似でやれば作れないことはないだろう。
 ルシフェルは一回り小さな銀器を取り出して、湯の張られたボウルに浸ける。

「さあイーノック、君の出番だ。
 この板チョコレートを細かく刻んで、小さいボウルの中へ入れてくれ。私も半分請け負おうじゃないか」

 男二人は各々フルーツナイフを手に取り、慣れぬ手つきで板状の製菓材料を刻み始めた。これが意外にもなかなかの大仕事だったので、イーノックはおろかルシフェルまでもが苦戦を強いられることになった。
 何せチョコレートは固く、刃が通りにくい。力任せに押し割ると欠片が大きくなり過ぎる。どれくらいの大きさに刻めばいいんだ、とイーノックが尋ねた。細かくだよ、とルシフェルが答える。

 細かく? と、イーノック。

 そうだ。細かく刻めとしか書いていないからな。大天使は片眉を吊り上げる。
 参ったよ。この本の著者はどうやら、読者全員が板チョコレートの扱い方を心得ているとでも思っている節があるな。知識をひけらかすのと、使いこなせるよう教授するのは違う。君も天界書記官なら肝に銘じるといい。

 そうするよ。四苦八苦してナイフを動かしながら、イーノックは大きく頷いた。

 ルシフェルの刻むチョコレートは細かくはあったがそれなりに荒く、対照的にイーノックの刻んだチョコレートはひとつひとつが針の先のような小ささだった。当然ルシフェルの方が分担を早く終えたので、手を拭った後に銅のミルクパンを持ち、ゆらりと桶へと向かった。
 薄布を剥がすと、既に牛乳の表面には乳成分が浮いてきている。ミルクパンをおもむろに突っ込み、濃い部分だけを掬い取る。鍋の端から牛乳がまだ滴るそれを、大雑把な手付きで暖炉へ突っ込んだ。火にくべられたミルクパンの中身は、暫くすると小さな泡を立て始める。そこでようやくイーノックがナイフを置いた。

「できた」
「君は大概几帳面すぎるよ。
 それなら、木べらでチョコレートを溶かしておいてくれ。今生クリームを持っていくから」

 細かく刻まれたチョコレートは、湯煎で熱されたボウルの淵に触れる度にどろりと溶ける。一心不乱に木べらで欠片を押し付けていると、沸騰寸前まで熱された生クリームを持ってルシフェルがひょっこり顔を出した。
 イーノックは手を止める。その間に出来立ての生クリームはボウルの中に注ぎ込まれて、白と黒の見事なコントラストを生み出した。

「いいぞ。そのまま混ぜろ」

 混ぜながらイーノックは、黒と白の渦に自分と天使の姿を重ねた。喉を突くような甘い匂いを撒き散らしながら、生クリームとチョコレートは重なり混ざり合って行く。滑らかな渦は徐々に粘度を増す。
 そこでようやく大天使から、ボウルを湯煎から外すようにとの指示が飛んできた。

 凝り固まった肩を回しながら、ルシフェルが人間臭い表情を浮かべる。

「ああ、料理というのは骨が折れるな。
 食欲が備わっていればもう少し楽しめるんだろうが、私にとっては神経質な泥遊びも同じだよ」




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