目を開けているのも、閉じているのも、そう変わりはしない。どちらも同じく終わりのない闇が広がっているだけだ。意味のない瞬きを繰り返しながら、左右さえない空間に膝を抱える。痛みはない。全ての痛みなど、とうに肉体と共に置いてきた。今では受肉していた頃受けた痛みさえ懐かしい。

“痛み、か”

 そう言えば、私の肉体に一太刀浴びせたあの男はどうしているだろうか。意思の強い瞳に、強靭な肉体。あのイーノックとかいう人間は、まだ果てしない旅の途中にあるのだろうか。そして大天使ルシフェルも未だに彼のお守り役を務めているのだろうか。人間と天使の二人組。やあ、考えてみればなんと愉快な組み合わせか。
 果たしてあれらの目的は達せられたのだろうか。天使というものは元来噂好きだが、魂の牢獄まではその噂さえ届かない。あのペチャクチャとやかましい世間話が恋しいな。何せここは平坦で危険もないが、どうも退屈で娯楽がない。
 まったく、便りのひとつでも送って寄越せば良いものを。
 取り留めもなくそんなことを思っていたら。



 突如、強すぎる光が舞い降りた。

「くっ?!」

 萎えた両目が焼け焦げてしまいそうなほど強大な光に晒され、私は思わず瞼を固く閉じた。光はどこからともなく現れ、無の牢獄を照らし出す。底無しの闇はすぐ白んじた。あまりの落差に茫然としていると、何やら鼻先を光源がひらり。
 光源は二つ折りにされた紙の形をしていた。聖なる光を発し続ける紙をおそるおそる突いてみる。怪しんではみたが、やはり紙には違いないようだ。やたらと清らかなそれを摘まみ上げ、そうっと開いてみる。
 目に飛び込んできたのは一際目立つ六文字。


御出席 御欠席

「は、はあ?」

 二度見した。
 あまりの不意打ちに私は二度見した。一度目を離し、もう一度見た。しかし文面は変わらなかった。だからさすがに三回は見なかったが、相変わらず紙上にはこう記載されている。

御出席 御欠席

 クエスチョンマークに埋め尽くされる脳内をなんとか掻き分けながら、私は太字以外の文章へと視線を滑らせた。先程の六文字よりはだいぶ細々とした字でそれらは綴られていた。だがその内容は私の驚愕全てを持ち去って余りあるものだった。

 以下、紙面より転載。



『謹啓 地上快晴の候 皆様にはますます御清祥の御事と御慶び申し上げます
 この度 神の御媒妁により、
   治夫 神の被造物 ルシフェル
   治夫 ヤレドの子 イーノック
 との婚約が相整い、結婚式を挙げる運びとなりました
 つきましては式後ささやかではございますが披露の宴を催したく存じます
 誠に恐縮ではございますが、御光来の栄を賜りますよう御案内申し上げます』



 転載ここまで。
 三百歳程余計に老けた気がする。頭の頭痛が痛い。アーチを握り締めていた褐色の影が脳裏をよぎる。なにが<意思の強い瞳>だ、アホか。今や闇でもなんでもなくなった牢獄で一人、私は膝を抱えた。勿論冒頭とは別の意味で、だ。
 私は大きく息を吸い込み、吸い込んだ以上に長く吐き出した。肺が裏返るような心地で、小さく呟く。

「……スーツは、どこだったか……」

 他ならぬ神が媒妁人ならば行かざるを得ない。捕えられてからも尚、中間管理職の性根がどうも抜けないのだった。









 きちんと出席の横の御を二重線で消して出席票を投函したことに多少の優越感を感じていたら、気がつくと指定日時を迎えていた。牢獄の端でくしゃくしゃに丸まっていたスーツは寝押しのお陰で皺もなくばっちりだ。シャツの襟がへたっているのは仕方がない。牢獄に洗濯糊がなかったせいにしておく。
 第一、打ち倒した相手を式に呼ぶこと自体が常識外れなのだから、そう細かいところを突っ込まれることはないだろう。というか突っ込まれても困る。牢獄に入れられたのは誰のせいだ。私か。人間の進化を恨みそうになる。

 会場は天界にある少し小洒落た料理店(招待状原文まま)だ。話によればアークエンジェルが近年開店したらしい。地上より余程俗っぽい天界の変化に嘆きながら、私は祝儀袋を手に受付へと向かった。3しか包んでいないが、まあいい。

 神は言っている――こういうものは気持ちなのだ――と。

 まあ、そんな台詞を耳にしたことはないがね。
 祝儀袋を受付にいたアークエンジェルへと渡す。いや、クチバシに咥えさせると表現した方が正しいかもしれない。白鳥がずらりと並んだ受付はどう見ても異様な光景だ。鳥アレルギー持ちにはさぞ辛い式になるだろう。アークエンジェルは器用に祝儀袋を受け取って、右翼で芳名録を指し示した。こんなところまで羽根ペンなのか。
 いい加減この羽毛の大バーゲンセール状態にうんざりしてきたところに、背後から声。

「闇の気配を感じます……」

 反射的に振り向く。そこには年端もいかない少女がネフィリムと共にこちらを向いていた。少女は光のない瞳越しに私をじっと凝視している。いぶかしむような視線だ。ネフィリムはと言えば相変わらず何を考えているのか分からない顔で、踏まれるがままになっている。

「こらこら、ナンナ、いけませんよ」

 敵視オーラを全身からびんびんに発している少女を制して、今度は見慣れた姿が現れた。

「あら、そこにいるのはアザゼルじゃありませんか」

 妙齢の婦人らしく紫色のドレスに身を包んで登場したのはエゼキエルだ。真珠のネックレスを二連で着けている。ようやく話が通じそうな相手が現れたと安堵したのは言うまでもない。少女から発せられる今にも刺し殺されそうな視線を器用に交わしながら、私は馴染みの彼女にひらりと手を振った。

「エゼキエル。君も呼ばれていたのか」
「ええ。まさかこんなことで牢から出されるとは思ってもいませんでしたが」

 そう口では言っているものの彼女はどこか嬉しそうだ。久々の外界がさぞ嬉しいのだろう。そう指摘してみたところ、エゼキエルは緩やかに首を横に振った。

「いいえ、私が嬉しいのはそこではないのです。
 あの二人が遂に愛に目覚めたことこそが、まさに私にとっての朗報!
 祝福の鳩が鐘を鳴らし、二人の濃密かつ大胆な愛を永久に謳うことでしょう」

 彼女は少々イッてしまった様子で瞳を輝かせている。こちらは筋肉質な男二人の濃密な愛、と想像しただけで少々胸やけがしそうだが、まあいい。あまり深く想像するのはやめておくことにしよう。地味に体力が削られる。しかし今から出席する席こそ、その濃密かつ大胆な愛の披露宴かと思うと――どうも尻尾を巻いて帰りたくなるのだった。

「……闇の気配を感じます……」

 ナンナという名の少女は相変わらず私の隙を窺っている。子どものくせに責め立てるような視線が巧い。

「仕方ないだろう、堕天してるんだから!」
「いけませんアザゼル。相手は子どもですよ」

 注意されたのはやはり私だけだ。腑に落ちない。
 腹立ち紛れに食前酒を煽った、ちょうどそのとき、祝福の鳩ならぬ白鳥のアークエンジェルからアナウンスが入る。

『大変長らくお待たせ致しました。
 まもなく新郎二人のご入場です、お席にてお待ち下さい』

 もうどうとでもなれだ。
 私は新たに食前酒を一杯掴むと、喉奥まで一気に流し込んだ。いわゆる景気付けというヤツだ。さあ、これで濃厚な愛だろうが筋肉だろうがどうということはない。どこからでもかかってくるがいい。

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